彼が、そこにいるということ。

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自分が年を重ねて 考え方が堅くなっているからなのか、 相手の価値観が突出しすぎているからなのか。 様々なことで、葛藤してしまう存在がいる。 所詮職場での付き合いなんだから、 ほどほどに付き合っていけばいいのに、 何故かいつも一緒にいて、心を砕く羽目に なる。 今まで他人に執着することのなかった自分が、 彼に対してだけは繋がりを欲し、 彼もきっと自分と同じで、何かにつけて 接点を持ちたがっている。 それならもう少しスムーズに 彼とのやりとりができればいいのに。 そう願うのは、贅沢なことなのだろうか。 「おはようございます」 広いフロアで視線の端にさえ届かない 距離でも、彼の声なら耳に入る。 パソコンに向かい毅然とした表情を 保ちながら、身を堅くして彼が近づいて くるのを待った。 「おはようございます」 軽く机を指先で叩かれ顔を上げれば、 彼の華やかな笑顔に出会い、 動揺しそうになるのを堪えながら、 ゆっくりと口を開いた。 「おはよう。相変わらず、元気だね」 「そうですか?いつもと、同じですよ」 表情とは裏腹な淡々とした言葉を返し、 彼は隣の席で就業の支度を始める。 彼が動くたび甘い香りが鼻をくすぐり、 今日もまたこの香りに包まれて、 仕事ができることに満足する。 配属初日、隣に座る彼に訊いた。 「キミ、何か香水でもつけてるの?」 「・・・え?職場ですし、そんなものは つけてませんけど」 「じゃあ、シャンプーかな」 何気なくそう言っただけなのに、 彼は唇の端だけでふっと笑みを作った。 「変な事、言ったかな」 「普通そういう事って、あまりストレートに 言わないなと思っただけです」 言葉に詰まり、 そこで会話が途切れてしまったが、 彼と顔を突き合わせてやりとりをする度に、 花のようなその香りが自分を取り巻き、 すっかり彼を意識するようになってしまった。 体臭というと耳障りな響きだが、 それはきっと自分にとっての「ツボ」 だったのだろう。 数日前。 たまたま休憩室で一緒になり、 2人でランチを摂ることになったが、 彼がとても意味深な発言をしてきて、 何て答えたらいいのか困ってしまった。 「あなたのその表情が、とても好きです」 「・・・え?」 思わず、手にしていたマグカップを 落としそうになった。 「え、じゃないですよ。これでも褒めてる んですけど」 「あ・・・ありがとう」 その口調じゃまるで怒っているようにしか 聞こえないよとは言えず、曖昧に微笑んだ。 「結婚は、しないですか」 「結婚?そうだな・・・縁が、ないね」 脈絡のない話が始まった気がして戸惑いを 隠せずにいる自分など気にすることなく、 彼はストローでオレンジジュースを口にして 真顔のまま言葉を続ける。 「僕はたぶん、すごく早いかすごく遅いかの どちらかです」 「そうなんだ」 「結婚は、したいと思いますか」 「そんなこと言われても・・・相手がいない から何とも」 「いないんですか」 「恥ずかしい話だけど」 「別にいなくても、恥ずかしくなんかないと 思いますけど」 「ああ、そう・・・」 「あの」 「はい」 「僕は、結婚したいなとは思います。 それがいつになるか判らなくても」 「そう・・・キミならきっと、できると 思うよ」 何故今、それも全然関係ないはずの 自分の前で彼は決意表明をしているんだろう。 彼の突拍子もない発言にすっかり胸焼けが して、ゆるゆると席を立った。 「そろそろ、時間だから失礼するね」 本当はまだ30分も時間があったが、 傍らに置いていた煙草の箱が軽くなっている ことに気づき、買いに行くことにした。 離れる直前に何となく気になって振り返ると、 まっすぐ自分に視線を向けていた彼と 目が合った。 「あ・・・また、後で」 その瞬間、彼が眉間にシワを寄せて こう言った。 「それ、余計なひと言ですよ。日頃、 言われませんか?」 えっと驚き、でもどう反応していいのか 判らないまま黙って部屋を出たが、 自分が何をして、彼に怒られたのか 読み切れなかった。 ドアの向こう側に残してきた彼が、 その後何を考えていたのかは定かではない。 彼の言動が保守的かつ消極的な自分の心を、 深くえぐり続けている。 それとも、彼が放つ花のような香りの魅力と 言葉の鋭さが強烈に自分を惹きつけ、 がんじがらめにしていると言った方が いいのか。 積極的に近づかないでいるのは 「これ以上はダメだ」と本能の部分が STOPをかけているからに他ならないが、 結局は彼の存在を気にしてしまうのだから 無駄な抵抗に過ぎない。 自分と背格好は変わらないが、少しだけ猫背。 喉が弱いのか、部屋が変わると小さな咳を することが度々。 いつもアイロンがかかった綿のハンカチを 持ち歩き、電話をかけるときは緊張ぎみ。 好きな飲みものはオレンジジュースで、 目を惹く外見とは裏腹に酒は苦手らしい。 たまたま同じ部署になり、たまたま席が 隣同士になった彼の人となりを日々知る事が、 とても嬉しく感じる。 単調な会社生活に鮮やかな色がつき、 プライベートにもハリが出て、 まさにいいことずくめだ。 ある1点を除いて、ではあるが。 「あの。これって、どう思います?」 「何?」 不意に彼に声をかけられても動揺を隠して 接することには何とか慣れたが、 身を斜めに傾け彼に近づくと余計に 彼の香りが心を捉え、 意識を飛ばしそうになる。 「マネージャーに、『この企画書、手直し してこい』って言われたんですが、 これでいいのかよく判らなくて」 「そうかあ・・・ちょっと見せて」 「ていうか、マネージャーだって文章作るの、 へったくそなくせに」 「おい、聞こえるって」 迂闊に聞かれたらこっちまで立場が 危なくなりそうで必死に彼を制止したが、 一度外れたたがはどうにもならないらしく、 彼の言葉は容赦なく続く。 「いいんですよ。だいたい僕はこんな事を するために、この部署にいる訳じゃない んです」 「何を言ってるんだか。いいからその口、 1回閉じろよ」 「あ、言いましたね。それは僕に対する、 挑戦状ですか」 「いい加減にしろって。とりあえず、 これは目を通すから少し待っててくれよ」 「ちっ」 半ば懇願する自分に一瞬だけ鋭い視線を 投げた彼は、黙って椅子に座り直した。 先輩に舌打ちしやがってと苦笑いをして から、約束通り企画書のページをめくり 始める。 確かに手直ししてこいと言われるだけ あって、文章が揺れているし構成が危うい。 企画自体はかなり面白いのだが・・・ とちらりと彼を見ると、退屈そうに天井を 見上げている。 「お待たせ。見たよ」 「どうでした?」 すっと顔を近づけてくる彼の腕に反射的に そっと手を添え、それ以上近づいてこない ように防御しながら、言葉を続けた。 「うーん、全体的に文章が、ね。怪しい」 「怪しいって何ですか」 「所々、日本語になってないところが あるんだよ」 「じゃあ、校正お願いします。 僕、そういうこと言われても困るんで」 「自分でやりなさい」 「今日、これしか仕事できないですけど」 「いいから、頑張って」 笑顔を作ってはいたが有無を言わさず 企画書を突き返し、パソコンに向かう。 隣ではぶつぶつ何かをつぶやきながら、 諦めた彼がペンを片手に校正を始めている。 いいことずくめにならないある1点、 それは彼が何故か自分をとても頼り、 甘えてくることだ。 自分のペースでそっと彼にときめきたいと いうのに、こうして嫌という程、 彼と一緒にいると欲が出そうで怖い。 同じ部署で仕事をするようになって、 1ヶ月。 それまではフロアで挨拶をするくらいの 関係だった彼と、毎日息がかかりそうな くらいの距離で仕事をするようになって、 確実に変化したことがあった。 30代を超え、体力と気力が落ちたと 感じながらも仕方ないことだと諦めかけて いたはずが、少しでも魅力的になりたいと 思うようになり、再びスイミングクラブに 通い始めた。 もともと水泳を長くやっていたこともあり、 身体を動かすことは苦ではなかったが、 仕事の多忙さにかまけて通う事を止めていた。 休会届けを出してから、約1年振りの復帰。 最初は衰えた背中や脚の筋肉を意識して ゆっくりとしたペースで泳いでいたが、 次第に勘を取り戻し、 会社帰りでも2時間ほど泳げるようになった。 姿勢がいい表情がいいと上司に褒められ、 またその気になり頑張って泳ぎ、 身体の軽さを心地よく感じながら フロアを颯爽と歩く。 自分より遥かに年下の彼が持つ若さは 得られないが、自分もまだまだ悪くないと 思えてきていた。 また、資格の勉強を始めるようにもなった。 20代の始めに資格をとって以来、 やはり仕事のせいにしておろそかに していたが、 独身で仕事以外に打ち込めるものがない 自分に付加価値をつける意味でも、 始めなければと思った。 1時間早く起きて、少しだけ空いた 電車の中でテキストを読みこみ、 喫茶店で朝食を摂りながらまたテキストに 目を通す。 定時で仕事を切り上げプールの魚になり、 軽く夕食を摂りながらテキストを広げる生活。 1日の終わりに酒をあおり、 泥のように眠っていた1ヶ月前までとは 比べ物にならない、充実した毎日を送っている。 彼の存在は、確実に自分をレベルアップ させるものであることは間違いない。 とはいえ、その感情は自分の心の奥底に 秘めたままで、彼に知られてはいけない ものだと感じていたし、 彼がどういう意思を持って近づいてくる のかは、怖くて確かめる事はできなかった。 「何ですか、人の顔をじろじろ見て」 「何でもないよ」 こうして向かい合って彼とランチを することも、珍しくなくなった。 混雑のピークを過ぎた休憩室は、 自分と彼の2人きり。 何を話す訳でもなく、何となく同じ時間を 過ごしているこの状態は、きっと願っても 得られないものだと思う。 しかしランチも駅までの帰り道も ほとんど毎日一緒というのは、不自然だ。 彼はいつの間にか、自分の隣という位置を 確保しどこにでも付いてくるようになった。 いったい、何を考えているのか。 時々息が詰まりそうになるのは、 相手の気持ちお構いなしでそれが当たり前 だというように彼が仕向けているように 感じるからだ。 慕われるのは有り難いが、もう少し自発的に 他の人とのコミュニケーションを図って ほしいと思う。 とことん気が合うなら、こんなに悩みは しない。 打ち解けているという感覚がない以上、 この物理的な距離の近さは相当しんどい。 片想いの相手と一言でもいいから 喋りたいとか、2人きりになりたいとか 健気に願う人が多いのに、 そう思ってしまうのはやっぱり贅沢な ことなのだろうか。 「あの」 不意に彼が口を開いた。 視線を左右に、泳がせながら。 「何」 「今夜も、プールに行くんですか」 「そのつもりだけど」 「・・・行かない日があれば、 言ってもらえませんか」 「どうして」 「付き合ってもらいたい、ところがある んで」 「・・・どこに行くの?」 「それは、まあその時に」 「わかった、言うよ」 一連の会話の流れから何となく感じる ものがあり、身体が粟立ち始めていた。 テーブルの上に置かれた煙草の箱に 手を伸ばした直後、その予感は当たった。 箱を覆う自分の指先に、彼の指先が重なって いた。 もちろんそれは偶然ではなく、 彼が意図してやってきていることだと 瞬時に判った。 「・・・何、やってんの」 小さく息を吐いてから、高揚する気持ちを 誤魔化すようにぎこちなく微笑んだ。 彼がどんな表情をしているのかは、 恥ずかしくて確認することはできない。 「迷惑ですか」 「いや・・・そういう訳じゃないけどさ」 「けど、何ですか」 「何と言うか、言葉にならない」 胸に押しつけられる鋭い刺激で、 本当にそれ以上言葉が出なかった。 視界の端で彼の細く長い指が、 自分の丸くごつい指を弄んでいるのが 見える。 何が起こっているのか理解できず、 脳が沸騰してしまうかと思うくらい 頭が真っ白になっていく。 がたん。 誰かが引き戸を開けて、休憩室に入ってきた。 背後から数人の男女の喋り声が近づいてきて、 それと同時に彼の動きが止まり、 やっと熱を帯びた時間から解放される事が できた。 「先に、行きますね」 席を立ちかけた彼を見上げ、反射的に 返事した。 「あ、また後で」 今度は、余計な事をと怒られることは なかった。 ドアの向こう側に彼が消えてから、 わずかに震える指先をそっともう片方の手で 包み込み、息を吐いた。 自分が今彼から与えられたものは、 錯覚でも勘違いでもない。 「そういう事なんだ」と、 初めて頭ではなく本能が理解した瞬間だった。 会社の最寄駅を挟んで東隣の駅が、 彼の自宅がある船橋駅。 自分は逆の方向の電車に乗り、 3駅目の市川駅。 いつもなら駅の改札口を抜けてすぐに 別れるのだが、改札口に入る直前、 彼に声をかけた。 「今夜は、プール行くの止めたよ」 「・・・本当ですか?」 驚いて振り向き、その場に立ち止まった彼に 微笑んでうなずく。 「で、どこに連れてってくれるの」 「心の準備が・・・できてないです」 「じゃあ、止めとく?」 「いえ、大丈夫です」 俯き、定期券を自動改札にかざし 中に入る彼について、同じホームへ向かう。 春の風に頬を撫でられ、混雑するホームで 電車を待ちながら彼の横顔を盗み見ていると、 そっぽを向いたままで彼の唇が動いた。 「あの」 「何」 「行き先なんですけど」 「うん」 「駅から少し、歩きます」 「大丈夫だよ」 「ありがとう、ございます」 次の瞬間、ホームに入ってきた 電車のドアの前に少し足を向けた彼の だらりと下がっていた手に手を伸ばし、 一瞬だけ指を絡めた。 「え」 目を見張り自分を見た彼に、 気づかない振りをして電車に乗り込んだが、 さっき与えられた動揺のお返しというのは 建前で、本能のままの行動だった。 自分の中で少しずつ、 日頃押さえつけていた衝動を解放する勇気が 湧いてきていた。 船橋駅に降り立ったのは、初めてだった。 用もなければ知り合いもいないのだから 当然のことだが、彼が住む街の最寄駅で あることに特別な思いを抱き始める。 改札口を抜け彼の誘導に従い、 通路を歩き駅の外に出ると、 バス乗り場を取り囲むようにコンビニと デパート、高層マンションが見え、 帰りを急ぐ人の流れを避けながら、 黙ったまま早足で歩く彼の背中を追った。 「この街に引っ越してきたのが、1年前 なんです」 数分後、小さく息を吐いた自分に振り返り、 彼は微笑んだ。 「高校の同級生に絵を習う友達がいて、 彼が『お前も描いてみろ』って勧めてきた んですけど、『絵心はないし無理だ』って 断ってました」 「うん」 彼に一歩歩み寄り、耳を傾けた。 「でも、たまたま住み始めたこの街で、 初めて描いてみたいと思った景色に 出会ったんです」 「それが、もしかしたら付き合って欲しい っていう場所?」 「はい・・・あそこです」 彼が指差す先にあったものは、公園。 「ちょうど満開の時期に、あなたと見られて 嬉しいです。行きましょう」 街灯の下、枝ぶりのいい桜の木が1本。 静かに揺れながら、自分たちを待っていた。 「何の変哲もない木だと思いますよね? それでも僕にとって、この木は特別なんです」 木のすぐ横にあるベンチに腰掛けてからも、 彼の言葉は続いていた。 「小さな頃、父をなくしました。母は僕を 育てるために、さまざまな仕事をしました。 団欒なんて言葉は僕にとってはリアルなもの ではなくて、ひとりで布団を敷いて眠るのは 日常茶飯事でした。そんな僕の夢の中に いつも出てくるのは、大きな木でした。 季節は必ず春、桜の花びらが舞う中に 佇む夢なんですけど、決して寂しいという 感情はないんです。その木に・・・守られて いるような気がして。夢の中に出てくる木を、 僕はずっと探していたんです」 「それが、この木だったの?」 そんな大切な思い出を、 何故彼は自分に話しているのか。 陳腐過ぎる自分の感情に嫌気が差しながらも、 そう聞かざるを得なかった。 「はい。僕は初めて、満たされた気持ちに なりました。『いつか出会える』って 信じて来て良かったって」 「うん」 「先月配属が変わって、あなたと同じ グループになった時、また同じ気持ちを 抱きました。『この人の側にいたら、 きっと寂しさなんてなくなるだろう。 自分が探していたのは、この人だ』って」 彼の顔が向けられ、自分へまっすぐ視線が 注がれる。 「僕のひとりよがりな思いを、あなたに 受け止めてほしいとは思っていません。 でも、この気持ちだけは伝えたかった」 「・・・本当に、ひとりよがりだよね」 ふっと鼻で笑い、自分の反応を見て ぎこちなく笑った彼の手をそっととった。 「キミは、わかってないよ・・・ キミが今まで向けてきた気持ちを、 相手がどう捉えているのか、 キミがいないときに相手がどう思いを 馳せているのかを、ね」 「え、それって」 驚きのあまり固まっている彼の手を 握る力を強め、微笑んだ。 「これからはお互いのペースを尊重しながら、 一緒に歩んで行こう。とりあえず、今の キミの望みは何?」 「うーん・・・お腹が空いてしまったので、 駅まで戻って夕食に付き合って欲しいです」 突然訊かれて返答に困ったとしても、 そんなことでいいのかよと思わず笑って しまった自分に、彼は戸惑いの表情を見せた。 「変でしたか?でも、笑うなんてひどいです」 「ごめんごめん。少し寒くなってきたし、 行こうか」 そう言って彼の手を離し、 立ち上がろうとする自分の腕に、 彼の腕が絡みついた。 「おっと」 身体のバランスを崩しかけて声を上げた 自分を、彼はさらに引き寄せる。 「あのっ」 「・・・何?」 平静を装いながら彼を見つめれば、 彼は香りを漂わせながら、自分の耳元に 唇を寄せてこう言った。 「もし、どんなことも口にしていいと 言うなら時間の許す限り、触れていたい、 です」 「・・・いいよ」 発した声は、乾ききっていた。 それと同時に身を堅くしてしまったのは、 もちろん警戒心からではなかった。 この距離でさえもむせるような、 彼の香りに包まれているというのに、 果たして自分は理性を保っていられるのか。 ありふれた夜の公園の風景が、 次第にピンク色に染まっているような 錯覚を抱き始めていた。
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