僕の場合

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僕の場合

前に付き合った男の影響で、 タバコとセックスが大嫌いになった。 誕生日が来ると28歳になる僕自身、 この年齢になれば さすがに価値観は変わらないと 思っていたが、 彼によってあっさり覆された。 彼との出逢いは、6月11日金曜日。 翌週に迫った自分の誕生日を1人で 迎えたくなくて、仕事帰りに初めて 出逢いの場に足を運んだ、そんな日だった。 18時半。 歌舞伎町にある噂のバーのドアを開け、 薄暗い中に一歩入った瞬間、驚かされた。 見るからに怪しい様子の男性しかいない。 舐め回すような視線にさらされ、 強いタバコの匂いが鼻についた。 場違いなところに来てしまったと 怖くなり、足がすくんだ。 入口近くに立っていたので、 入ってきた人と肩が触れ合った。 「入らないの?」 甘く癖のある声に、反射的に振り返った。 目が合ったその人こそ、彼だった。 「僕も初めて来た。やっぱり怖いよね」 カウンターでカクテルを飲みながら、 彼と微笑み合った。 川瀬と名乗った彼は、僕より3歳上の30歳。 外資系企業で働いているサラリーマンで、 最近彼氏とは別れたと言った。 「岸野くんは、タバコ嫌い?」 マルボロの赤箱が、彼の右手の中に見えた。 彼が喫煙者だと知り、慌てて首を振った。 「大丈夫です。吸ってください。 この店、すっごくタバコ臭いですし。 もう匂いとか、関係ないです」 「じゃあ、遠慮なく」 そう言って、 彼はzippoのライターを弾き、火を点けた。 タバコの匂いが気になるようなら、 家に帰って何とかすればいいだけのこと。 お気に入りのジャケットを着ていたが、 第一印象から好意を抱いた彼に対しては、 マイナスのことを言いたくなかった。 「誕生日を1人で迎えたくなくて、 ここに来ました。川瀬さんは、やっぱり 出逢いを求めて?」 「いや。単なる興味で。有名じゃない? ある筋の人たちには、ここはとても」 「そうらしいですね」 「しかしキミは、勇気があるね」 「え」 「僕と出逢ってなかったらどうなってた? 今頃落ち込んで帰ってるか、店のトイレで 襲われてたかも知れないよ」 「ですね」 「とりあえず、出ようか。飲み直しても いいし、帰っても大丈夫」 「飲み直したいです。まだ時間早いですし」 「了解。ちなみにどこ住み?」 「小田急線の喜多見が、最寄駅です」 「偶然。僕もだよ。家は狛江市だけど」 「僕はかろうじて、世田谷区です笑」 「そうか笑笑。で、どこで飲みたい?」 「成城学園前の駅近くにおいしい焼鳥屋が、 あるんですよ」 「知らないなあ。そこ行く?構わないよ」 「ぜひ」 新宿に勤めているというのに、 僕はこの街の煩雑さが苦手だった。 小田急線に乗るために、新宿駅に向かった。 19時半。 成城学園前にある、焼鳥屋の個室にて。 メインの焼鳥が来るまでの間、 お通しの三種と焼ぎんなんを食べながら、 2人で日本酒を煽った。 「やっぱり気が楽です。家の近くで飲めて。 新宿、未だに怖くて」 と、本音を口にすれば、 彼はうんうんと頷きながら微笑んでくれた。 「岸野くんて、素直でかわいいね」 「そうですか?ありがとうございます」 かわいいなんて言葉は、初めて言われた。 嬉しかったが、同時に前の彼氏の顔を 思い出していた。 人の悪口ばかり言って、 常に相手の気分を悪くする天才だった。 「どうした?何か思い出した?」 彼の鋭い一言に、僕はぎこちなく微笑んだ。 「はい。昔のことを思い出しました。 川瀬さんは、恋のトラウマはありますか」 「まあまああるけど、こればかりはね。 時間が解決してくれるというか」 「そうですよね」 「良ければ、話聞くけど」 と彼に言われたので、壁の向こう側にいる 人たちに聞こえないくらいの小声で、 「前の彼氏のせいで、セックスが嫌に なったんです」 と言った。 「えっ、マジで」 それを聞いて、彼は眉を顰めた。 「力づくというか、無理強いというか。 それ以来、3年ほど彼氏がいません」 「そうか‥‥でも、よくさっきの店に 行く気になったね。また傷つけられて、 立ち直れなかったかも知れないのに」 「僕の気持ちをわかってくれる人がいたら いいなって思って。ダメ元でしたね」 「そうかー」 「何か、すみません。変なことを言って」 「いや、大丈夫」 「川瀬さんは、何故彼氏と別れたんですか?」 と訊くと、彼も壁の向こう側に配慮した 小声で、 「やっぱり、セックスだね」 と言った。 「合わなかったってことですか?」 「ん。相手が激し過ぎて、ダメだった」 「そうなんですね」 「言うことを聞いてたら、どんどん要求が エスカレートして。結局、降参した」 「‥‥要求とは」 「ハプニングバーに行こうとか、 外でしようとか、複数人でしようとか、 いろいろ」 「警察に取り押さえられたり、SNSに 上げられたりしたら、終わりじゃないですか」 「ん。だから抱き合うだけでも満足な人を ゆっくり募集中」 「はい‥‥」 「岸野くんとは今後どうなるかわからない。 いい友達になるのか、恋人になるのか。 時間をかけて、見定めたいね」 「ぜひ、その方向でお願いします」 「来週、誕生日なんだよね。僕で良ければ 一緒に過ごそう」 「はい。お願いします」 「お待たせしましたー」 焼鳥が運ばれてきたタイミングで、 彼とまた日本酒で乾杯した。 彼に出逢えて良かったと、心から思った。 彼とは翌週の誕生日を皮切りに、 毎週土曜日を一緒に過ごすようになった。 朝早く起きて近所を散歩したり、 カフェでランチをしたり、 新宿まで出て映画を観たり、 ボーリングやカラオケ、水族館に行ったりと まるでデートをしているかのようだった。 彼の優しく誠実な言動に触れるたびに、 彼に全幅の信頼を置くようになった。 出逢ってすぐ芽生えた彼への好意は 恋心へとゆっくりシフトしていき、 間もなく出逢って半年となる晩秋の夜、 僕は彼に告白をすることを決めた。 それと時を同じくして、 初めて彼の家に行くことになった。 11月24日、土曜日。 スタートは、日没後の17時。 喜多見駅近くのスーパーの前で、 彼と待ち合わせした。 「何か、無性に岸野くんと飲み明かしたく なったんだよね。ぜひ朝まで付き合ってよ」 告白の決意をした緊張気味の僕の内心を 知らずに、彼はワインの瓶や缶酎ハイ、 燻製いかやチーズ、ナッツ類を大量に カートに入れていた。 「別に、大丈夫ですけど。珍しいですね」 「外で飲む時は、量をセーブしてるから」 「なるほど」 「岸野くんも遠慮しないで入れて?」 「あ、はい。まだおつまみが足りない気が」 「じゃんじゃん入れて。金はおろしてきた」 「僕もお金出しますけど。こんなに買って、 本当に全部飲めますか?」 「大丈夫大丈夫」 大きめのレジ袋4つにもなった荷物を持ち、 彼の先導でマンションに向かった。 スーパーから歩いて、3分。 7階建てマンションの最上階の一室が、 彼の部屋だった。 キッチンにレジ袋を置いて、 リビングにつながるドアを開けると、 ベランダの先に広がるのは、一面の夜空。 思わず早足で、ベランダに出た。 空が霞み、星が見えないのは残念だったが、 2階建てのコーポの僕の部屋とは、 雲泥の差の眺望の良さだった。 「明け方、よくベランダに出るよ。 寒いけどサイレントブルー、一緒に見よう」 彼が、聞き慣れない言葉を口にした。 「サイレントブルー?」 「うん。夜明け前の青い空。キレイだよ」 「それは楽しみですね」 「ただ6時26分頃が11月25日の日の出で、 サイレントブルーはその直前に見られるから、 朝まで起きてるか、目覚ましかけて起きる ことになるけどね」 「どちらでも大丈夫ですよ」 「ん。では、とりあえず飲み始めますか」 傍らの置き時計は、18時を示していた。 サイレントブルーまで、あと12時間。 「岸野くん、岸野くん」 不意に肩を揺さぶられ、意識が浮上した。 「‥‥いつの間に」 右手には、ワイングラス。 握ったまま、寝落ちしていた。 目の前には、微笑んでいる彼の姿。 頬は赤かったが、最初のペースでワインを 飲み干しているのを見て、呆然とした。 「何時、ですか。僕は、何時から寝て」 混濁する意識でそう口にすると、 彼は傍らの置き時計をテーブルに乗せ、 「今、午前2時」 と言った。 うわ。ということは3時間も寝たのか。 確かさっきまで、高校時代に流行った 音楽の話をしていた気がするが。 「岸野くん、いったん横になって? 飲ませ過ぎたよね。ごめんね」 「すみません、もう大丈夫です。 とりあえず水をいただければ、復活します」 「本当に大丈夫?ちなみに僕は ザルレベルの酒の強さだから、 心配しないでね」 「あ、はい」 思わず、笑いが漏れた。 「水、あげる。待ってて」 立ち上がり、冷蔵庫に向かう彼の背中を 見送りながら、考えていた。 告白はどうしよう。 彼の飲むペースは変わらなさそうだし、 逆に僕がまた酔い潰れそうな勢いだ。 サイレントブルーに出会う頃、 僕はどうなっているんだろう。 日を改めた方がいいのだろうか。 揺れる内心を抱え、彼の差し出す 水の入ったグラスを受け取った。 サイレントブルーまで、あと4時間。 「音楽でも、流そうか」 午前3時過ぎ。 また彼は立ち上がり、 CDプレーヤーにCDを入れて振り返った。 「ジャズでいい?」 「はい」 飲み始めてから9時間以上経過していたが、 彼の様子は変わらない。 本当に、強すぎる。 僕はといえば、水とワインを交互に飲み、 また酔い潰れないように様子を見ていた。 「川瀬さん、眠くならないんですか」 「うん、ならない」 傍らに転がる彼が空けたワインの瓶を数え、 これはお金がかかるだろうなと思った。 「お腹空かない?パスタ茹でるけど」 そのスリムな体型からは似合わない発言に、 苦笑いした。 「おつまみ、飽きたんですか?」 僕の横にあるレジ袋には、 まだナッツと燻製いかが残っていた。 「いや、岸野くんが寝落ちしないように」 「やっぱり寂しいですか、寝られると」 「まあね」 「わかりました。パスタいただきます」 「じゃあ、茹でてくるよ」 本当に、元気だなあ。 今度は彼の背中を見送るのは止めて、 キッチンに向かう彼の後をついて行った。 「あれ、どうしたの」 「何となく」 寂しいからとは言わず、言葉を濁した。 「そうか」 水を張った鍋をガス台に乗せた、 彼の手の動きをぼんやり見つめていると。 「岸野くん」 「はい」 声をかけられ、顔を上げた。 「何ですか」 「ゴミ片付けようか。パスタが茹で上がる まで、時間あるし」 「はい」 何か言おうとしたのを誤魔化したと思った。 もしかして、僕の気持ちに気づいた‥‥?! ワインの空き瓶を拾いながら、彼を見た。 こういう時の頬の赤さは酒のせいなのか、 そうじゃないかがわからないから困る。 それでも。 目を合わさず、黙々と周りを片付ける彼の 様子は、少しだけ違和感があった。 サイレントブルーまで、あと3時間。 ジャズCDの再生が終わり、 リビングが静かになった午前5時20分。 あれから彼は沈黙を貫いたまま、 ワインを飲み続けていた。 相変わらず頬は赤かったが、 それ以外は変わらない。 やっぱり彼に気づかれている。 そう思った。 僕も黙ってワインを飲み、 すっかり冷めてしまったパスタを口にした。 気持ちを言わなければ、友達のままで いられるのだろうか。 二度と会えなくなるのは、ごめんだった。 時計の秒針の音だけが、部屋に響いていた。 サイレントブルーまで、1時間切っていた。 午前6時15分。 その瞬間は、とうとう訪れた。 「岸野くん」 僕の名前を呼んで、ベランダに向かう彼に 続き、立ち上がった。 ベランダに出た瞬間、僕はその光景に 目を見張った。 独特な青色が、空一面に広がっていた。 「キレイですね」 彼の隣でそう呟くと、 彼が突然僕の手を取り、指を絡めて、 「キミと見たいと思ってた」 と言った。 その言動に驚き彼を見ると、 彼はまっすぐ、僕を見つめていた。 「友達のままじゃ、やっぱり嫌だ」 「はい」 青が薄くなり、 透明に近い白になっていく空を 目の端で確認しながら、彼にうなずいた。 リビングに戻った僕たちは、 テーブルの横のソファに倒れ込んだ。 僕を跨ぐような格好で上になった彼が、 ボタンに手をかけ、シャツを脱ぎ捨てた。 適度に鍛えられた胸板が露わになって、 目が眩んだ。 そして、そのまま彼に抱きしめられ、 彼の腕の中で恥ずかしさのあまり 小さくなった僕に、彼が囁いた。 「顔、上げて」 返事の代わりに彼の腕にそっと手を添えて、 彼の唇を受け入れた。 キスがこんなに尊いものとは知らなかった。 彼とすることがなければ、 決して湧かなかった感情だと思った。 「あなたが、好きです」 深いキスの途中で紡いだ告白の言葉は、 驚くほど滑らかに僕の唇から零れ落ちた。 「僕も、キミが好きだ」 彼もキスをしながら、愛の言葉を口にした。 彼から発せられたこの言葉を、 どれほど待っていたか。 言われるまで、気がつかなかった。 絶対に離さない。 彼と抱き合い、 情熱的なキスを交わし続ける中、 いつの間にか、涙が頬を伝っていた。 彼と唇を重ね、肌を合わせた この日の朝に、 これが幸せというものなんだと 初めて実感した。 僕の心は、 この上ないほどの幸せで満ち溢れていた。
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