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肩の付け根に電流が走る。雨粒が迸るように躍動した。
バシャリ。恥骨に鈍い痛みを感じると同時に、尻のあたりからじわりとぬるい湿り気が広がった。眼前にはごうごうと黒く渦巻く川があり、硬質な石橋がそびえ立っているかのように威圧する。
「What the hell are you doing?!」
激しさを増す雨をも吹き飛ばす怒号にオレは肩を震わせて、隣を見上げた。オレの腕を引っ張ったまま、肩で呼吸をする男がいた。痛いくらいにギリギリと肩を掴まれてオレは男の顔を確認する前に顔を歪めた。
「What…What are you doing?」
どうやら、オレはこの男に引っ張り戻され、このびしょ濡れの地面に倒れ込んだらしい。
脳天に降り注ぐ雨が現実から乖離する。耳に染みたのは日本語ではなく、流暢な英語だったのだ。
男はしばらくオレの様子を窺っているようだったが、周囲の怪訝な目元と水を跳ね上げる足音にハッとしてしゃがみこみ、顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか? なにをしているのですか、一体……」
そうされてやっと男の顔を見る。息をのんだ。刈り上げた短髪は薄暗い中でも目に焼き付くような金色。堀の深い顔立ちにくっきりとした鼻筋。切れ長の目の隙間から見える瞳は深い青色。英語を話す時点でわかっていたはずなのに、実際に見ると酷くありえない光景に思えた。この世にここまで端正に作られた顔があるのだろうか。まるで画面の奥のおとぎ話から飛び出してきたみたいだ。
スーツを雨に濡らしてオレを見つめる男。二の句が継げない。これが乙女ゲームの導入だと言われても納得だ。
「大丈夫ですか?」
「あ、あぁ…ごめんなさい。大丈夫、あぁ……。Sorry……Something is wrong with me.」
どもりながら訥弁で答えると、男は瞠目した。オレが日本人にしてはハッキリと英語を話したからだろうか。しかし、神妙な面持ちは崩さないまま、彼はオレの腕を引く。
「とりあえず立ちなよ」
「……ありがとう」
「無事ならよかったけれど、あぁ……そのズボンはもう履かない方がいいな」
「えっ、あぁ……そうだね。仕方ない。オレのバカな頭がそうさせたんだ」
自分の無様に濡れた泥まみれの服を見下ろして苦笑いしてみる。
男は自分も濡れていることに気付いているんだかいないんだか、首を傾げて逡巡すると、いまだ掴んだままのオレの腕に目を向けて、言った。
「Would you like to come over to my place?」
「What?」
先ほどからオレと男は英語で話しているが、今の言葉を端的に訳すなら、「俺の家に来ない?」だ。
日本では、見ず知らずの人を家に招いたりはしない。日本語を話せはするが、やはり文化圏というか価値観の違いというものはあるらしい。
……いや、いくら自由の国であろうと、同性だろうと、初対面の人間を家に呼ぶほどパーソナルスペースは緩くはない。まずは、バーで仲良くなることから始めるところだろう。
「なっ……なんで?」
「その服では歩けないだろう? きみも、私も。私の家なら全てが揃っている」
「オレにだって帰る家があるよ」
「大雨の川に飛び込みたくなる気持ちにさせる家に?」
指さす先には黒い川。今しがた目の前で自殺未遂をした人間が、問題ない、自分で帰るなんて言ったって説得力皆無だろう。
ううっと呻くと、男は肩を上下させて笑った。元々セットされていたであろう髪は雨でぐちゃぐちゃになっている。大きな手で前髪をかき上げると、そこにいたのは渋い顔のナイスガイだ。
「ハハハ、ところで私のスーツは60万するんだが?」
「わかった。行くから、早く行こう!」
そんなわけでオレは見ず知らず、だけれどオレを助けてくれた、60万のスーツを着こなす男の家に招かれてしまったのだ。
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