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目を覚ますと病院にいた。
胃が気持ち悪く、頭が痛かった。腕には針が刺さっていて、点滴の袋がいくつか釣り下げられていた。
オレは、病院に運び込まれたらしい。パートナー、トーマス・ハーゼスの通報によって。
トーマスが持ってきてくれたオレの財布の中には保険証も入っていて、本人確認、身分証明を済ませて、それから様々な書類を読まされ、サインさせられた。やっと束の間の自由を手に入れたオレはすぐに、仕事のスケジュールを確認し、間に合わない仕事に関しては事情説明のためにメールを送り、電話をかけまくっていくつかの仕事をリスケしてもらった。
トーマスには、面会云々の事情から病院側から電話をかけてもらった。彼との関係からいまだに逃げようとしている自分がいることも確かだ。
落ち着いたところで、ベッドに体を沈める。寝心地は最悪だ。
彼は面会に来ないだろう。
それどころか、オレの部屋の荷物をまとめてゴミに出しているかもしれない。あの部屋の中で一番のお荷物であるオレがいなくなったんだから。
「有宮さーん、検温お願いします」
「あ、はい」
看護師さんの間延びした声で現実に引き戻される。
熱はなく、食欲もある。落ち着いてからカフェインとアルコールの過剰摂取に関しての説明を長々と説明され、生活習慣病の危険性をわかりやすく説明したプリントをサインした様々な書類の控えと共に渡された。
念のため検査をして、早ければ明日の昼頃には退院の予定だ。
これからどうしようか。オレはあの家に帰れない。トーマスは貴重品一式持ってきてくれてるし、この際、両親のところへ飛んでしまおうかな。
「どうせもう、日本にいたってなんの意味も……」
言葉を遮るように病室の扉が開いた。
思わず目をやると、眩しい金髪が飛び込んできて、頭をぶつけるんじゃないかという高身長に横開きの扉が小さく見える。
トーマス・ハーゼスは強張った顔でしばらくオレを凝視していたが、神妙な顔を崩さないまま、同じく神妙な声を発した。
「ヘンリー・ヴォルフ」
オレはじっと彼と目を合わせて押し黙った。
トーマスはお構いなしにずかずかと病室へ乗り込んできて、ベッドの横に立つ。
「……」
「ヘンリー」
そして、彼が横に座って迷いなくオレを抱きしめた。
「よかった……」
切実な声ともはや懐かしい体温に涙が出そうになる。
顔を合わせることに怯えていた、凝り固まって頑なになっていた心が融解してゆくのを感じる。
「……きみは来ないと思ってた。オレに愛想を尽かしたんだと」
「ああ、そう思っていた。きみに言いたいことはたくさんあった。だけど、きみの顔を見たら、そんなことより、きみが生きていてよかったと安心した」
「トーマス……」
彼がどんな顔をしているのか、抱きしめられているからわからない。だけど、心の底から安堵していることが伝わってくる。
「ヘンリー・ヴォルフ。きみがいない間考えたんだ。そして、私たちに足りないのは、頭を冷やす時間でも距離でもなく、会話なんだと気付いた。教えてほしい。きみが何に追い詰められているのか。何が不満で、不安なのか」
抱きしめる腕を緩めて、彼はオレの顔をまっすぐに見つめてくる。
オレも目を逸らさないで、まっすぐ見つめ返す。もはや逃げようなんて気も起きなかった。ここまでしても、トーマスはオレを見捨てなかった。そんな彼にこれ以上不誠実な真似はできなかった。
「きみが話したがらないことを理由に、私は無理に聞こうとしなかった。時間が解決してくれるものだと思っていた。けれど、それはなんの解決にもならない。話さないと。ヘンリー、どうしたらきみが話しやすくなる?」
「………トーマス・ハーゼス。きみは本当にいいやつだ。だからオレは……きみとの幸せが素直に喜べないんだ」
自分の中で折り合いをつけなきゃいけないことだったのに、オレは彼を裏切った。八つ当たりをして、自分をかわいそうなやつだと言って、だけどそういう性格だから仕方ないんだと言い訳をして諦めていた。卑怯者だ。
今でさえ、トーマス、きみがそうやって優しくするせいでオレは自分と向き合えないんだ、なんて最低なことを考えている。
でも、終わりにしたいんだ。本当に。
「話すよ。きみは何も悪くないんだ。オレがきみを傷つけて、拒絶したことだってきみにはなんの非もない。オレが臆病だから起こった事なんだ」
きっと今だろうと思って、しどろもどろに、要領を得ない言葉だけど、彼に伝えることにする。あんなに言い淀んでいたのに、一言目を出したらダムが決壊するように言葉が溢れてくる。
一緒にいる幸せが、かえってオレを苦しめること。いつかこの関係が終わるんじゃないかと不安になってしまって、情緒不安定になっていたこと。
いっそ、突き放してほしい気持ち。
己の中に蓄積されていたマイナスの感情を一息に放出して、話し終わって深呼吸する。不甲斐なくて涙が出そうだ。
ちらりとトーマスを窺うと、彼は神妙な顔をして、静かに言った。
「……きみの言っていることが、まったく理解できない」
トーマスの顔は本気で困っていた。
そしてオレの手を優しく包み込む。真っすぐな瞳がオレを射抜いた。
「理解できないが、きみが苦しんでいることはわかった。ヘンリー、もし、もしも、私といることできみが苦しい思いをするなら、この関係は健全ではない。きみに苦しんでほしくないし、互いに傷つけあう真似なんてしたくない」
オレだってわかっていた。彼がわかってくれないことをわかっていた。
オレとトーマスはあまりにも違うから。前向きでいられること、取捨選択ができること、幸福の割り切り方。何もかもが違う。そして対立する。彼は対立なんて望んではいないし、相手にもしてくれないだろうけど、オレは違う。
根本的に分かり合えないんだ。彼はそれすらも許容できるが、オレは違う。
だけど、同じなところだってある。
これ以上、彼を傷つけたくない。傷つけあいたくない。
「きみの言う通りだ。健全じゃない。わかってる。オレたち、きっと、別れた方がいいんだ」
別れた方がいい。
自分で言った言葉の重みに押しつぶされそうになる。こみあげるものがある。
将来を思うなら、迷う必要はない。仕事上のパートナーとして割り切った方がオレたちはうまくいく。
震える唇を噛んで、拳を握って、そして顔を上げた。涙がこぼれて視界が歪んだ。
口を開く。からからに渇いていた。だけど声は芯を持っている。
「でも嫌だ。別れたくない。オレはきみと別れない。別れるくらいなら、死んだ方がマシだ」
ずっと言いたかった。
拒絶されることが怖かった。
だけど、どんなにひどい喧嘩をしても、彼が眩しすぎても、失望されても、この気持ちだけはオレの真ん中に常にあって、しっかり固定されて、動くことも欠けることもなかった。
「きみを愛してるんだ。トーマス」
本当にずっとそうなんだ。
きみのいない3日間も、きみと出会う以前の人生ですらも、ずっときみを待っていた。きみと出会うために生まれてきたんだってくらい。
「どうしようもないくらい、愛してるんだよ……」
拒絶しないでよ。失望しないでよ。突き放さないでよ。
全部ひっくるめてオレを愛してよ。
願望と欲望が混ざった涙が、頬を伝って落ちる。オレの気持ちは膨らんでいくばかりで一向に洗い流されない。
トーマスは黙っていた。だけど大きな手のひらがオレの手を包み込んだまま、体温を伝えてくれる。
そして、うつむいたオレの耳元に唇を寄せて、優しく囁く。
「ヘンリー、私はきみのためになにができる?」
それが彼の答えだとわかった。
相変わらず優しくて、オレを突き放さないで、そして救ってくれる。
「待っていてほしい」
「オレが、臆病じゃなくなるまで待っていてほしい。そばにいてほしい」
幸せをためらわなくなるまで、何年もかかるかもしれない。だけど愛想を尽かさないで隣にいてほしい。いつかきっと、応えて見せるから。
彼はオレの言葉に間髪入れずに、前のめりで答えた。オレが彼を眩しくて、どうしようもなく好きだと感じる瞬間だ。
「もちろんだよ、ヘンリー。そしてきみは不安になったらすぐに話すんだ。決して一人で抱え込まないで」
オレのヒーローが大丈夫だって言ってくれる。手を引っ張って、未来を見せてくれる。
彼の手を離したくない。
「わかった。ありがとう、トーマス」
実に、何週間ぶりに自然と笑みがこぼれた気がする。
涙にまみれたみっともない顔だろうけど、彼の顔を見上げてぐちゃぐちゃに笑った。
彼も笑った。困ったように眉を寄せながら、肩を竦めて、笑った。
「きみは本当に、私をおかしくさせる天才だ」
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