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あの事件以来、オレとトーマスは何度目かの平穏を得た。 平穏と不穏を行き来しているが、今度こそ穏やかな日々を過ごせるだろうと思っている。以前にも増して、オレたちはラブラブになった。 退院してからオレは少しずつカフェインとタバコから離れるようにした。酒も控えるようにして、実現可能な限り規則正しい生活を送るようになった。 ただ、どうしてもカフェインを摂取したい衝動に駆られるときがある。そんなオレに向かって彼は、「耐えられなさそうな欲求に襲われた時は、私をハグするといい」と、謎のアドバイスをしてくれた。 何を言ってるんだ、トーマス。彼の着地点のよくわからないジョークだと思って、オレはからかってやるつもりで彼の背中に頬を寄せ、鍛えられた胴に腕を巻き付けてみた。彼のがっしりとした筋肉を感じる。 自分からこんなことするなんてめったにないことだから、オレはものすごく照れていたけど、トーマスはもっと慌ててくれたらいいのにと思っていた。 「ははん、ヘンリー」 「きっ、きみが言ったんだろ。ハグしろって……」 「確かに言ったね。ようし、良い子だ」 オレの腕を解かせて正面から向き合うと、彼はかがんでキスしてくる。唇を食べるように触れて、離れて、甘噛みして。唇の中央あたりから滑り込ませるように濡れた軟体がくすぐってきて、オレは思わず体を強張らせた。 彼がたおやかに微笑んだ気がする、というのも、口元の攻撃は止まっていない。 口を開けと言わんばかりの愛撫に根負けして、唇の粘膜を見せるように動かすとすかさず舌が割り込んできて遠慮のない大人のキスをぶつけられる。 「ふ、は……な、なんのつもりだよ」 「きみが落ち着かないと言うから協力したんだ」 「はっ?」 トーマスは断じて、天然ではない。だからこのキスも、タバコをやめられない人に対する似非対処療法であることを理解しながら行っているのだ。確実にそうだ。だってこんなににやけているのだもの。 「も、もうしない」 「キスしたくない?」 「そうは言ってな……い」 「ぐっすり眠れるようにしてあげられるのに」 「よく言うよ! なかなか寝かせてくれないくせに、さ」 顔を熱で火照らせて、彼を押しのける。うまく力が入らない。ははん、といつものように笑ってオレの手を掴むと、ゆっくりと目を閉じて指先にキスなんか落としてくる。誘われている。 「ああもう!! 勝手に、ベッドで待ってればいいだろ」 「どうもアリガトウ、おひめさま」 また変な日本語を覚えてるな? 悔しく思いながらも、オレが返事を突きつけるまで無言で見つめられると断れない。嫌な気がしていないからこそ悔しい。トーマスは2メートル近い(もしかしたら2メートルある)くせに、なぜか上目遣いが上手い。 こうやってオレはお姫様扱いされている。ベッドで優しく手懐けられて、介抱されて、ぐっすり昼前までお休み。出勤時間帯を優に超えるが、以来重要な会議以外は在宅に切り替えた彼はお姫様が起きてくるまでリビングで自適に仕事をしている。そしてオレが起きると作業を中断しておはようのキスを要求してくる。 こんな感じで、オレたちはラブラブだ。 互いの愛情を余すことなくぶつけあって、話して、許し合っている。 疲労から生じる性欲の発散目的でもつれ合うことはなくなって、愛おしいからベッドにもみ合って、触れ合って、濃厚なセックスをする。 彼の察知能力は格段に上がった。幸福から来る鬱症状を発症したと察した瞬間、彼はオレを抱きしめてメンタルケアしてくれる。良くも悪くも、彼はせっかちで即断即決の人なのだ。オレは渋々、約束した通り、生じた不安の煙を言葉にして吐き出す。そんなオレの言葉を全否定して、全肯定してくれる。こんなことをさせて申し訳ないという気持ちごと包んでくれる。 「トーマス」 「うん?」 ベッドで睡魔に蝕まれながら、ピロートークが沈む。 「いまだにわからないことがあるんだ」 「なんだい、ハニー」 「きみはどうして、オレにこんなに優しいんだ?」 「どうして? 恋人なんだから、普通じゃないか」 いいや、普通じゃないね。 瞼を開くことさえ難しくなってきた中、鈍る頭の隅で彼の言葉を確実に否定する。 「ヘンリー、きみが私にそうさせるんだよ」 「きみは、どうしてそんなに、オレのことが好きなんだ……」 ついに瞼を閉じて、闇に包まれる。けれど心も体も温かく、包まれている安堵感に意識が遠のいていく。 「どうしてだって? ははん、きみには一生わからないだろうな……おやすみ、マイシュガー。夢の中で会おう」 そのフレーズ、新曲の中に練り込むのは、間違ってもやめてくれ……。 言葉にできないまま、オレは深い微睡の湖に沈んだ。
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