もうひとつの恋。

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もうひとつの恋。

ずっと、好きな人がいる。 でも、その好きな人には恋人がいる。 僕の完全な片想い。 「岸野のそんな顔、見たくないなあ」 恋人になったばかりの存在について 相談された時に、初めて口にした本音。 彼は知らない。 恋焦がれる余り、彼とセックスしたいことを。 夏休みも中盤を過ぎた、8月10日。 突然、岸野葵に呼び出された。 場所は、岸野と僕以外誰もいない岸野の家。 親友という立場は、こういう時に役に立つ。 緊張感はないが警戒もされないで、 好きな人の家にお邪魔できるのだから。 「岸野。話って何?川瀬のこと?」 岸野とは中学からの同級生で、 同じ陸上短距離部の仲間だった。 高校で離れるかと思っていたが、 岸野が本命の高校に落ち、 滑り止めのうちの高校に通うことになった。 親友歴はもう4年になる。 岸野とはいろいろ、深い話をしている。 川瀬が初めての恋人の岸野とは違い、 性に早熟な僕は、 中学3年の時に、僕に告白してきた女の子と 初体験を済ませたことを岸野に話していた。 だからきっと、 岸野もいつか話してくると覚悟していた。 「うん。実は、この間川瀬と‥‥」 「川瀬と?何」 「あの‥‥したんだ。初体験」 ああ、とうとうその日が来たか。 天を仰ぎため息をつきたい気分だったが、 僕はつとめて冷静に答えた。 「おめでと。良かったじゃん」 「うん‥‥」 「何だよ、幸せじゃないのかよ」 岸野を軽く小突くと、岸野は苦笑いをした。 「もちろん幸せなんだけど‥‥。 川瀬にもっと会いたくなって、辛いんだ」 「つまり、もっと抱かれたいってこと?笑」 「佐橋、もっと言い方ってものが」 「ごめんごめん。でもそういうことでしょ」 「川瀬は大学に行くために、毎日必死で 勉強してる。それなのに、僕は怠けるだけ 怠けてて。忙しい川瀬に会ってもらえる だけでもありがたいのに、何もないんだ。 自分のやりたいこと」 「なるほど‥‥もっと真面目な話だったか。 まあ僕もやりたいことはないけど、 とりあえず大学には行きたいから、 受験勉強は始めてるよ」 「佐橋も?嘘でしょ、じゃあ僕だけなの? 勉強もしないでのんびりしてるのは」 「そうかもね。受験勉強は早すぎることは ないから、岸野も頑張れよ」 「おとなしく就職しようかと思ってたけど、 頑張ってみる。大学に行ってからでも やりたいことは見つかるかも知れないしね」 「そうだよ。一緒に頑張っていこうぜ」 そんな風に岸野と話しながら、 岸野が川瀬と初体験を果たしたことが、 重くのしかかっていた。 今までだって、 立てなくていい波風を立てるつもりは なかったし、今は更に勝算はゼロに等しい。 でも。 このままどんどん手の届かないところに 岸野が行ってしまうのを黙って見ていても いいのかと葛藤していた。 好きな気持ちが途絶えない以上、 何か変化を起こしたかった。 それが、 失恋と友情の終わりという結果に、 繋がったとしても。 「岸野、あのさ」 「ん?」 「僕は、岸野が好きだ」 ちゃんと岸野に聞こえるように 声を張ったつもりだったが、 緊張からか声は少し掠れて出た。 「佐橋?」 驚きのあまり固まった岸野の両肩を掴み、 言葉を続ける。 「ずっと、好きだった」 「さ、佐橋」 そして、呆然としている岸野の唇を奪った。 「んっ、さは、しっ、何っ」 必死で抵抗する岸野に深いキスをしながら、 右手は岸野のズボンのボタンに伸びる。 素早くチャックを下ろし、 半分ズボンを脱がせた状態で、唇を離した。 「な、何事?佐橋、冗談が過ぎるよ」 僕の唾液で濡れた唇を拭うこともなく、 まだ微笑もうとする岸野を僕は押し倒した。 「佐橋!」 「岸野、ごめん。お前が好きなんだ‥‥ だから、お前を抱きたい」 「佐橋、いくら親友の頼みでもそれは 無理だ‥‥好きな人がいるんだ」 岸野は恋人がいるとは言わず、 好きな人がいると言った。 些細な言葉のニュアンスの違いだが、 川瀬には勝てないと思った。 それでも、一度火がついた衝動を 止めることはできなかった。 「岸野。絶対に誰にも言わない。 今だけ、僕の恋人になってくれよ」 岸野の肩に触れている手が、震え始めた。 「佐橋‥‥、今これで止めてくれたら、 今までの関係に戻れると思う。 だから、ねっ、落ち着いて」 岸野は必死で表情を作り、僕をなだめる。 もはや、 自分の起こした行動が正しかったのか、 わからなくなった。 でも一瞬でいいから、 岸野に自分の方を向いて欲しかった。 もう止めよう。 大好きな岸野が困ってるじゃないか。 と、確かにそう思ったんだ。 「岸野、ごめん。悪かった」 岸野の右手を掴み起こそうとしたその時に、 電話の着信がなければ。 「あ」 岸野が、傍らに置いたスマホに目をやった。 その視線のあり方で、 電話をかけてきた相手が川瀬だと、 すぐに気づいた。 こんな時に、川瀬のことを考えるな。 僕は、起きかけた岸野を抱きしめた。 「電話なんか、出るなよ」 「佐橋」 「岸野」 岸野の名前を呼んでしがみついた僕に、 岸野は観念したのか、 やがて身体の力を抜き、僕に身を委ねた。 「一度だけなら‥‥」 その言葉は瞬時に、 僕の身体の中心に、深く刺さった。
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