愛の始まり。

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愛の始まり。

(岸野、岸野) 川瀬が、そして佐橋が、僕を呼ぶ。 2人とも裸で、僕も裸だ。 彼らの元へ走って向かうが、 道は二股に別れ、どちらかにしか行けない。 僕は立ち止まり、先に進めないでいる。 そんな夢をよく見るようになった。 いつもそこで終わるその夢は、 間違いなく今の心境が見させるものだ。 性欲に限界のない、 いわば猿化した僕だというのに、 この1ヶ月、川瀬の発案による 『セックス禁止令』のせいで、 おとなしく禁欲生活を送っていた。 最初の3日間は、 愛用のアナルバイブでオナニーをしたが、 一度セックスを経験してしまった以上、 本物でないと満足できず、やる気が失せた。 (そう言えば、日頃のモヤモヤ鬱々は、 全て佐橋に聞いてもらってたんだっけ) 親友である佐橋には、 いつも甘えっぱなしだと自覚している。 川瀬と付き合うことになってからも、 報告し、相談していた。 でももしその佐橋でなく川瀬を選んだら、 そんな心の拠り所を失うことになるかも 知れない。 もしも佐橋を選んだら、 セックスの相性は最高で、性格の相性も 長年の付き合いで抜群と把握している。 理想的な恋人を得られて、満足度は高い。 川瀬とはそこまで深く関わっていないので、 性格の相性は未知数だが、 条件だけで言えば、佐橋に軍配が上がる。 とはいえ川瀬を選ばなければ、 恋人を裏切ったと悩みそうな気もする。 同時に、今の自分にとって、 付き合う人に求める要素は何かということを 明確に把握しておかなければと考えていた。 その中でもやっぱりセックスは、 切っても切れない要素のひとつだった。 力強いストロークで際限なくイカされ、 全てを奪い去られる感覚に陥るセックスが 持ち味の川瀬に、 僕の性感帯を知り尽くしているかのような キメの細かいセックスが持ち味の佐橋。 特徴の違う2人に、甲乙つけるのは難しかった。 どちらかを選んだら、 もう片方は捨て去らなければならない。 恋人とセフレの両立は、あり得ない。 明日、9月18日は 川瀬との初めてのプラトニックデートで、 翌週の9月25日が、佐橋とのデート。 自分とのデートは川瀬のデートが済んでから でいいと、佐橋は言った。 「映画、面白かったね」 そう微笑む川瀬は、自身の持つ目を惹く 外見で、周りに注目されている事に 気づいているのだろうか。 「うん。楽しかった」 ジャズが流れるオシャレなカフェで コーヒーを飲みながら、 僕たちは取り止めのない話をして、 笑い合った。 川瀬とセックス抜きでまともに話したのは、 初体験後の数時間だけだったから、 こんな事に興味があるのか、とか、 こんな事に笑うのか、とか発見があって、 嬉しかった。 川瀬の爽やかな笑顔に、 改めて片想いを始めた日々を思い出した。 川瀬とは進展を急がず、 友達から始めても良かったのかも知れない。 佐橋は、何をしているのかと考えた。 佐橋とデートするなら、 映画でもオシャレなカフェでもなく、 きっといつもの喫茶店かゲーセンか、 カラオケボックスだ。 気心知れた仲だから感じる心地よさは、 まだ川瀬には感じない。 それは時間が解決してくれるのかは、 わからない。 『まあ、何だ。相性って奴だから、それは』 以前、佐橋が送ってきたLINEの通り、 相性が鍵を握っているのかも知れない。 「岸野、何考えてるの」 川瀬に訊かれて、ぎこちなく微笑んだ。 「何でもない。川瀬、服が見たいんでしょ? 見たいブランドがあるの?」 「いや、特には。秋物が安かったら、 買いたいかなって思って」 「そっかー」 恋人の川瀬と話しているというのに。 川瀬に惹かれて恋をしたのは、 間違いないというのに。 一生、川瀬だけだと誓ったはずなのに。 気づいてしまっていた。 これ以上川瀬に、 そして自分に嘘をついてはいけない。 僕は意を決して、川瀬に言った。 「川瀬。ごめん。結論が、出ました」 電車を乗り継ぎ、 佐橋の住む街の最寄駅に着いたのは、 夕方近くになってからだった。 買い物客で賑わう商店街を抜け、10分。 佐橋の家の前で、LINE画面を開いた。 『佐橋、今どこにいる?』 LINEをしてすぐ既読になり、 佐橋からの返信があった。 『後ろ』 振り向くと右手にスマホ、 左手に買い物袋を下げた佐橋が立っていた。 「川瀬とデートじゃなかったの」 「デートだったよ」 「まあ、とりあえず中に入れよ」 佐橋はそう言って、門扉を開けてくれた。 「で、どうした?川瀬とのデートは、 盛り上がらなかったのか」 「映画を観て、オシャレなカフェで お茶を飲んだよ。川瀬らしい感じだった」 「待てよ。まだ、17時過ぎなんだけど。 終わるの、ちょっと早くないか」 「終わらせてきました」 「はあ?」 「はあ?じゃなくて、結論出してきたんだ」 「えっ」 佐橋は驚き、言葉を失った。 「川瀬とは、別れた。これからは、友達の ひとりとして付き合うことになった」 「い、いいのかよ、それで」 「うん。川瀬とデートしてても、 佐橋のことばかり考えてて。 僕は、佐橋が好きだ」 その瞬間、佐橋が息を飲み、 僕たちの間に沈黙が横たわった。 しばらくして、佐橋が口を開いた。 「お前を好きでいていいのか」 「もちろん」 「横恋慕したみたいで、ずっと罪悪感が あった。いや、本当は僕の方が岸野を 好きになったのは早かったんだけど。 奪うみたいで、申し訳なかった。 でも、いいんだな?岸野を好きでいても」 佐橋への返事の代わりに、 僕はそっと佐橋の手を握った。 涙目の佐橋が僕に顔を寄せてきて、 「また、抱いてもいいのか」 と言った。 僕は笑って頷き、佐橋にキスをした。 「ぜひ、恋人として初めてのセックスを」 佐橋は最近まで僕が童貞だったから、 セックス先行のこの付き合いが 刺激が強すぎる、だから2人のうち 1人を選べないと言ったけど、 初めて佐橋とセックスした時から、 僕は間違いなく佐橋を選んでいたんだ。 川瀬が悪い訳ではない。悪いのは僕だ。 友達になったって、 裏切りを簡単に許してもらえるとは思えない。 でも、やっぱり嘘はつけなかった。 川瀬の手を離して、佐橋と手を繋いでも、 また僕の気が変わるかも知れないし、 今度は佐橋の気が変わるかも知れない。 これからどこまで一緒にいられるかなんて 誰にもわからない。 ただ禁欲生活の中で、 佐橋のしなやかで細めの体つき、 艶っぽい声に花のような体臭を 思い出して切なく焦がれていたことは、 紛れもない事実なのだ。 それでも初めての恋人は、人生でたった1人。 だから僕は一生、忘れないだろう。 僕を愛してくれた、川瀬由貴を。
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