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日曜日
「やだぁ」
「どうした?」
春樹の問いかけに振り返った妻の唇はへの字に曲がり、目元は心なしか濡れている様にも見えた。
「これぇ…」
そう言って妻が差し出した手には、妻が祖母から譲り受けた真珠のネックレスが握られていた。妻は特別な日は必ずそれを身につける。
「見てよぉ…酷い」
言われた通り春樹は小さな粒に目を凝らす。真珠は外側へ向かうほどぼんやりと輪郭を曖昧にしながら、照明を反射している。八ヶ月前、後輩の結婚式で見たのが最後だったか。
「酷いってなにが?」
「くすんでるの!」
くすんでいると言われれば、そうなのかもしれないが、春樹には以前との違いがわからない。
「ほら、ザラザラしちゃってる」
確かに多少、ザラついた様にも見えたが、そういう物だと思えば、なんの不思議もない。そもそも、危険物を察知した貝が作った、気まぐれな宝石なのだ。まん丸でつるんとしている方がおかしい。春樹はそんなことを考えてみたが、到底口に出せるような雰囲気じゃない。代わりに「そんなに変じゃないけど」と言ってみたのは、妻のご機嫌伺いのつもりだった。
「変だよ! 留金だって黒く変色しちゃってるし!」
逆効果だったのか、妻はますます唇をへの字に曲げてしまう。学生時代から合わせて十年、未だに機嫌を損ねた妻の宥め方が、春樹は分からない。
「こんなんじゃ、明日、つけていけないよ……」
恨めしそうに、妻はベッドの上に横たわった、青いたドレスに目をやった。黄色味がかった真珠がよく映えそうな濃い青だ。それにしたって真珠でなければいけない理由が、春樹には分からない。真珠がダメなら、他のものを身につければいい。例えば、二年前の誕生日に買ってやった、ダイヤモンドのネックレスだって悪くない。
「他の……」
じゃダメなの? 言いかけた春樹の言葉を遮って、妻は「パールじゃなきゃダメだよ!」と前のめりだ。昔から妻はこうと決めたら譲らない、頑固なところがあるのだ。かと言って、妻が言う、真珠のくすみをどうにかしてやれるわけでもない。春樹はしばらく、妻の手に握られた真珠のネックレスを眺めながら、何か良い解決法はないかと考えてみた。
他のアクセサリーがダメだと言うなら、修理に出すしかないのだが、今日中に仕上げて貰うのは無理がある。時間は既に午後六時だ。まだ間に合うとすれば、妻を従えてデパートへ行き、真珠のネックレスを新調してやることだったが、数万、はては数十万出費する事を、可とするには些か説得力に欠ける。
「なんでこうなっちゃったんだろう? 汗だってちゃんと拭き取ってたのに……」
手の中の真珠を見下ろし、ぼやいた妻の言葉に、春樹は途端にはっとする。
「汗? 汗だめなの?」
「ダメだよ、酸化しちゃうから、使ったらちゃんと手入れしてあげなきゃ」
春樹はまさかと独言ち、いやしかし、と考えを改める。妻の真珠がそうなってしまったのは、自分のせいかも知れない。考え始めると、額はには汗が滲み、全身がむず痒くなるような居心地の悪さを感じた。ほんのつい先程まですっかり忘れていたくせに、その事を思い出した途端、まるで昨日のことの様に、くっきりと色鮮やかに再生されるのは、濡れた皮膚の上で踊る、真珠のネックレスだった。
「何?これ?」
春樹のポケットから滑り落ちた、フェルトの巾着袋を拾い上げ、博己が尋ねた。何が入っているのか、大きさの割にずしりと重い。
「あー、忘れてた」
披露宴の三次会に向かう妻から、帰るなら持って帰ってと預かったのだ。失くしたくないからと言われたが、預かった春樹はポケットに入れたことさへ忘れていた。博己から受け取った巾着袋の紐を解き、春樹は中身を取り出して見せる。連なったいくつもの小さな粒が、照明の灯を跳ね返し、濡れた様な艶を表面に描き出す、真珠のネックレス。
「奥さんの? 綺麗だね」
博己は、春樹の手から真珠のネックレスを拐った。
「宝石、興味あんの?」
「興味あるって言ったら、買ってくれんの?」
博己は都内の1LDKに暮らす、独身のシステムエンジニアだ。既婚で小遣い制の春樹より、自由に使える金は多い。
「自分で買えよ」
春樹は鼻先で博己の質問を笑い飛ばした。
「興味ないよ」
博己は手放すのが惜しいとばかりに、ネックレスを指先で弄ぶ。そう言えば、長い付き合いの間、博己に何か贈ったことなんてあっただろうか? と春樹は考えた。妻にはイベント毎にプレゼントを用意した春樹だが、博己に贈ったことはない。相手が自分と同じ男だからだろうか、考えたことすらなかった。
「買ってやろうか?」
春樹がそんな気になったのは、ただの気まぐれだった。
「真珠? いらないって」
「じゃなくて……クリスマスも近いしさ、なんか欲しいもん」
「いいよ。小遣い少ないじゃん、おまえ」
博己は揶揄う様な口ぶりで笑った。春樹の小遣いは月四万ほどで、確かに多いとは言えない。だが、何か適当な理由があれば、妻は余分に小遣いをくれる。
「ちょっと多めに貰うし」
「奥さんに貰った小遣いで、プレゼント?」
情け無い。春樹は自らそんな言葉で、博己の台詞を補完する。独身時代なら好きなように使えた収入も、結婚した二年前から自由が利かない。春樹も尻に敷かれているつもりは毛頭無かったが、家計を握るのは妻なのだ。
「俺の稼いだ金だし」
ボソリと愚痴を溢してみたが、夫婦共働きで、正確には妻の稼いだ金でもある。
「いいって。女じゃないんだよ? おねだりするような年でもないし。欲しいもんは自分で買うって」
女じゃない。出会った頃からの博己の口癖だった。博己はいつもそう言って、物も時間も欲しがらなかった。
「女じゃないから、もっと乱暴にしてよ」
初めて関係を持った夜、博己がそう言った。コンパの後、酔って雪崩れ込んだ博己の部屋での事だ。春樹にとっては初めての男性経験で、気がつけば、酔っていたという言い訳は通用しない所まで来ていた。
体の関係を持ってしまった以上、友人とは呼べず、かと言って、妻という恋人がいる限り、恋人とも違う宙ぶらりんで、恋愛感情の有無すら曖昧だ。結婚してなお博己との関係を断ち切れなかったのは、都合の良い相手が欲しかったからでもない。繰り返し体を重ねることで、肉体以外の目に見えない何かが、博己に春樹を引き寄せるのだ。一口に言ってしまえば、情だろうか。
「なんか欲しいもんないの?」
「あー、じゃあさ、プレゼントはいいから、これつけてみていい?」
博己は手にした真珠のネックレスを春樹の方へと差し出した。女じゃないから。興味がない。そう言ったばかりなのに。春樹は不思議な気もしたが、初めての「おねだり」を受け入れ、博己の首にネックレスをかけてやる。春樹は今朝、妻にも同じ事をした。頸に落ちる後毛に少しばかり欲情し、それを晴らす為にそこに口付けた。春樹はやはり、今朝、妻にそうした様に博己の首筋に口付けた。
博己の胸元の真珠はまるで、妻への背信行為を肯定する様に楽しげに踊り跳ね、白熱灯のオレンジが博己の表皮を覆う、細かな汗の粒を輝かせていた。綺麗だと春樹は思った。真珠もオレンジも、それらを纏った博己が、綺麗だった。
「今日……なんかあった?」
春樹の問いかけに、なんかって? と、息も切れ切れに博己が応える。
「なんか、いつもと違う」
二ヶ月ぶりとは言え、ベッドでの博己は酷く興奮し、やけに積極的で、二度果てた後も春樹を離してくれなかった。腹の上で、探りあてた快感を享受する博己の恍惚に、春樹は貪り食われているような気がする。それでも不快感はない。博己の中に自分が溶け込んで行くような錯覚があり、春樹は高揚している。十年もこうして交わりながら、こんな気持ちになったことは一度もなかった。博己への愛おしさが、胸を締め付ける。どうして一度も気がつかなかったのか、春樹は少しばかり後悔を滲ませた。十年は十分に長い。
博己の大腿が強張り短く痙攣したのを合図に、極限まで搾り取られた精気が、一気に逆流し、春樹の中へ流れ込むなり、二人はまるで見計らった様に同時に頂上へと到達した。ぐったりと脱力した博己の体を春樹が受け止めた。
真珠のネックレスが、春樹の首元をくすぐり、妻の顔が頭を掠めた。何時ごろ自宅に戻るのだろうか? サイドボードに手を伸ばし、春樹は時計をつかみ上げた。短針は間も無く十時を指そうとしている。胸の上で、深呼吸を繰り返す博己の背中を撫でながら、春樹はまだ時間がある事を告げた。出来る事なら、尽き果てるまで博己を抱いていたかった。
「もう、終わろ?」
春樹の心中を知ってかしらずか、博己は上体を持ち上げた。じゃらっと真珠のネックレスが二人の影で揺れる。
「終電に間に合えば大丈夫だから」
春樹は博己の頬に手をやった。汗で濡れた頬は冷たい。博己は春樹の掌を愛おしむ様に頬擦りする。
「そうじゃなくて、俺たち、終わりにしよう」
ただの聞き間違いだ。春樹は博己の体を強く抱き寄せた。触れ合う場所はどこもぴたりと密着している。それなのに、丸くて硬い真珠の首飾りが、胸に食い込み邪魔をする。そうして博己は繰り返した。
「終わりにしよう」
博己とはそれっきりだった。電話は解約したのか連絡がつかず、自宅を訪れてみたが、インターフォンには反応がなかった。地階から見上げた博己の部屋の窓は、カーテンが取り払われており、二度と明かりが灯らないことを春樹に教えた。きっと、ずっと以前から準備をしていたのだろう。自分がいかに鈍感だったのかを春樹は思い知らされた。
「ねぇ、聞いてる?」
妻の声に意識が呼び戻される。妻の手には、博己が唯一残した置き土産。
「ごめん、なんだっけ?」
「他ので我慢するって、言ったの……」
そう言いながらも、肩を落とした妻は悲しげだ。春樹は真珠のネックレスに目を落とす。真珠が汗に弱い事を、博己は知っていたのだろうか?
「デパートなら、まだ間に合うかな?」
「でも……」
先日ボーナスが支給された。貯蓄に回す予定だったが、仕方ない。妻へのせめてもの罪滅ぼしだと、春樹は腹を括った。
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