与奪

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与奪

 僕はそこに立っていた。ジリジリと音が聞こえてきそうな程熱い熱気が体を覆い尽くす。体のいたる所に汗がまとわり付き、その汗が腕を伝い鉄板の様に熱せられた地面に滴り落ちていく。  その鉄板の上で蒸発もせずに広がる液体があった。そこへ、僕の手に握られたナイフから汗と一緒に粘土のある赤い滴が落ちていく。  その様を見ながら達成感に浸っていた。  ――僕はやり遂げたのだ。兄から残りの人生を奪う事が出来たのだ。  僕には2つ上の兄がいる。兄はとても優しく、歳が近い割には僕の面倒もよく見てくれ頼れる存在だった。僕らの両親も愛情を分け隔てなく注いで育ててくれ、側から見ればごくごく一般的な家族に思えたであろう。  しかし、僕はしばしば満たされない気持ちに襲われる事があった。この暗澹たる気持ちの正体が分からずモヤモヤしていた。  そんな時には兄にわがままをいう事で満たされる気持ちになっていた。 「お兄ちゃんはずるいよ」  これが僕の決め言葉だった。何か満たされない気持ちが芽生えてきた時には決まって兄にこの言葉を投げつけた。  おそらく、僕の根本には独占したい気持ちが強く根ざしているのだと思う。それは、2つ上の兄には僕のいない両親との二年間があり、僕を妊娠して出産するまでの約一年間を除いても、両親の愛情を一身に受ける一年間があったわけだ。  その一年間は僕には存在しない時間で、僕にしてみれば両親からの愛情とは常に僕と兄の二人へ向けられるものでしかなかった。  それは、僕らの名前からも感じられた。兄の名前は優太、僕の名前は優二だ。両親からしてみれば優しい子になる様にといった具合に、特に何の含みもなくつけた名前だったのだろう。実際、小学校の時『名前の由来』を調べる授業の際にはその様な説明を受けた記憶はある。しかし、僕はおいそれとそれを間に受ける事は出来なかった。兄の名前にはなく、僕の名前にある『ニ』の文字に、お前は2番目なんだよと暗号めいた意図がある様に感じていた。  だから、僕は兄にわがままをいう事で――兄から色々なモノを奪う事で、僕だけの愛情にしたかったのだろう。  幼い頃は無自覚的に行っていたのだと思う。その都度優しい兄は僕に様々なモノを与えてくれていたのだろう。それを意識的に行ったのは小学生の頃だった。  きっかけとなったのは当時流行っていたカードを買いに行った時だった。兄はお風呂掃除を行う事でお駄賃をもらいカードを買いに行こうとしていた。 「お兄ちゃんだけずるいよー。僕だってカード買いたい」 「お兄ちゃんはお掃除手伝ってくれたから、お駄賃もらえたのよ。優二も何かお手伝いする?」 「イヤだよー。でもカードが欲しい!」 「お母さん、俺のお駄賃少し優二に分けるよ」 「えっ、やったー!」 「ダメよ。 それは優太が頑張った証なんだから!しょうがないわね。それじゃ優二にも少しお金あげるわよ。 まったく……」  そうわがままをいい、お金を手に入れる事ができ、僕らはカードを買いに行ったのだ。購入したカードの結果は、僕は2枚購入したうちの一枚はキラキラしたレアカードだった。購入数が少ないが運が良かった。兄はというと5枚購入し、特にレアカードのない結果となった。僕は残念そうにしている兄を横目にうきうきしていた。しかし、そんな兄を見ているうちにレアカードもなく、ただ購入した枚数が多い兄のカードもどうしても手に入れたくなった。それらは既に僕も持っているカードだったのだが。 「お兄ちゃん、僕お兄ちゃんのカードも欲しいな……」 「えっ、だってこのカード優二も持ってるじゃん」 「でも、どうしても欲しいんだ……」  兄は困惑の表情を浮かべながらも、駄々をこねている僕の顔をジッと見つめる。 「分かったよ。優二にあげるよ」 「お兄ちゃんありがとう!大事にするよ!」  そう言って喜ぶ僕に、兄は優しい眼差しを向けて頭に手をポンポンと乗せてくれた。僕はカード自体が欲しかったわけではなく、兄が僕より多くカードを持っている事が受け入れられなかったのだ。結果として数時間後には兄からもらったカードはカードケースの中に投げ込まれ、二度と目にする事も無かった。僕より何かを手にしている兄から、それらを奪い取る事で充足感を得ていたのだ。この時初めて、奪う事で充足感を得る事が出来ると自覚したのだった。  初めの内は物理的なものを奪う事で満足感を得ていたが、この行為は徐々にエスカレートしていった。中学生の時は部活動で野球をしていた兄だったが、運動神経が良い事もあり中学校低学年からめきめきを頭角を現し、3年生の時には主力メンバーとなっていった。面倒見が良く、周囲からの信頼が厚い事もあり、キャプテンを任せられエースで4番という絵にかいた様な中心人物だった。  僕も中学に入学し、当たり前のように野球部に入部した。当然入部の理由は兄が自分よりいい思いをしている事が許せず、その立場を奪ってやろうと思った事だ。僕も兄と兄弟という事もあり運動神経はそれなりに良かった。しかし、入部の理由も不順である事や、野球という競技にそこまでの思い入れがなかった事もあり兄のように選手として優秀だったわけではなかった。『優太の弟』という事がプラスαの評価となり潜在能力の高さ過信されていた。  兄が中学3年の最後の大会での事だった。兄が中心となりチームを引っ張り準々決勝戦に勝利すると、両親は兄の活躍を手放しで喜んでいた。僕はその事が気に入らず陰鬱な気持ちになる。    ――お兄ちゃんばかりちやほやされてずるいんだよな。  そんな気持ちで頭を一杯にしていると、ムクムクと兄からその立場を奪いたい衝動に駆られていく。  ――お兄ちゃんの立場を僕のものにしてしまえばいいんだ。そうすればみんなが僕の事だけを見てくれるに違いないんだ。  準決勝の試合の数日前の事だった。僕は兄の部屋の前にいた。あの考えを実現する為だった。  部屋に入ると兄はグラブを磨いていた。その顔は真剣で明日の試合のシミュレーションでもしているのだろう。 「お兄ちゃん、ちょっと相談いいかな?」 「ん?どうした?」  シミュレーションに集中しているのか、言葉だけをこちらに向ける。その対応に苛立ちを覚えながら仕掛けていく。 「……あっ、やっぱりいいや。集中している所にごめんね」 「いや、わるいわるい。どうした?」  今度はこちらに開き直り言葉をかけてきた。僕はニヤリとしてしまう所をグッと抑え、神妙な面持ちで兄の目をみる。 「僕さぁ、部活やめようかと思うんだ。」 「えっ、急にどうした?野球嫌いになったのか?」 「いや、野球は好きだよ。でもお兄ちゃんの弟だって事で、同じ学年のヤツらから僻まれてるんだよね……」  兄は驚いた顔をして、そんな事あるのか?と訝しがっている。僕は更に落ち込んだ表情で言葉を続けた。 「お兄ちゃんは知らないんだよ。花形選手のお兄ちゃんの前ではみんなかわいい後輩なんだろうけど……」  ありもしない話をでっち上げた。実際にはごく普通にみんなと接しており、特に問題はなかった。 「僕だって頑張って練習してるからそれなりに実力はあると思うんだ。だけど、みんなはそう思ってない。僕には力を証明する場もないし……」 「優二……」 「お兄ちゃんはずるいよね。エースで4番だもん。力を証明する機会なんていくらでもあるもんね。それに比べて僕は……」  その話を聞いた兄は何かを考えているような表情をしていたが、言葉を発する事もなく沈黙が続いた。僕は心の中で舌打ちし、作戦が失敗したと思った。  翌日の準決勝では兄の活躍もあり、チームは快勝した。部活内や保護者の間ではお祭り騒ぎとなり兄を持ち上げる雰囲気はより一層高まっていった。中でも両親の喜びようといえば、僕の事など存在しないのではと思うほど兄を褒め称える会話が家の中に充満していた。僕の中の不足感はますます大きくなり、頭の中を蝕んでいく。何か策を立てなければと思うが、何も出来ずにいた。  そして、決勝戦を迎える数日前にそれは起こった。兄は部活が終わった後のトレーニングとして外へ走りに行っていた。僕は部屋で本を読んでいると、突然母親の甲高い悲鳴のような声が聞こえた。 「優太!あなたどうしたの!」  僕は慌てて部屋を出て、玄関の方へ駆け寄った。玄関の上がり框にうな垂れながら下を向いている兄がいた。手は左足首をさすっていた。その後ろ姿を黙って見つめていると、不意に兄が振り返り僕を見た。言葉は何も発する事は無かったが、僕を見るその目は優しさの滲んだかつても見た事のあるもだった。  兄の話ではランニング中に足首を捻ってしまい、足を引きずるようにして帰ってきたとの事だった。あの兄がそんな怪我をするようなトレーニングをするだろうか、数日後の決勝戦を想い、気持ちが昂りオーバーワークになってしまったのだろうかと疑問符が頭に上がった。しかし、翌日病院の診察を受けた結果、やはり足を捻挫していた。しばらく安静が必要となり、決勝戦は見送るよう指示されたとの事だった。  両親を含め、兄の周りの落胆ぶりは酷かった。掴みかけていた希望がするりと手から滑り落ちていったのだから無理もない事だろう。僕はといえば表向きは悲痛の表情を浮かべていたが、内心は歓喜に浸っていた。こんなラッキーな事があるのだろうか、信心深いわけでもない僕だがその時ばかりは神に感謝した。  更に僕の充足感を満たすような事が起こった。それは決勝戦の2日前の部活前の時間だった。僕は顧問の先生に呼び出され、ある話を聞かされた。それは僕が決勝戦のマウンドに立つという事だった。話の流れが急過ぎてしどろもどろしている僕に先生は言った。 「優太のたっての願いで、お前を決勝のマウンドに立たせて欲しいんですと言われたよ」 「兄が!?」 「優二はものすごく熱心に取り組んでいるし、兄である自分が優二の能力の高さを誰よりも知っている。今はその能力を見せる場がないだけで、きっとすごい選手なんだと」 「兄がそんな事を……」 「あの優太にそんな事言われたら、試してみたくもなるだろう。優太の分も頑張ってこい!」 「はい……」  僕は歓喜した。兄が足を怪我した事で周囲からの注目を失っただけではなく、なんとそれを僕に与えてくれようとしたのだ。初めにアプローチした時は兄から無下にされたが、怪我という不運から急転直下の展開が舞い降りてきてのだ。その後部活内では僕をもてはやす言葉を沢山もらったし、自宅に帰れば両親の注目は僕の集中していた。兄はと言えば自分が試合に出らなくなり辛い状況にも係わらず、僕に良かったなと優しい声を掛けてくれた。その時の目にも優しさが浮かんでいた。  僕はその目に見覚えがあった。流行りのカードを僕に譲ってくれた時など、何かを僕に与えてくれた時に見せる優しい目だった。そして、今回もそうだ。怪我をして帰宅した際に玄関で僕に向けたその目も優しい目をしていた。ハッとする。今回の一連の行動は全て兄が自ら作り出した状況ではないかという思いが頭に浮かんだ。  ――お兄ちゃんは優しいなぁ。この調子でどんどん僕に色々なものを与えてくれればいいのに。  結果的には決勝戦は負けてしまった。僕なんかが投げ勝てる相手ではなかった。それは最初から分かっていた事だ。僕が最も気を付けていた事は、どんなに打たれても挫けない健気な姿をみんなに見せる事だった。事実、その姿がみんなの心を打ち、僕の株は急上昇していった。それは兄たち三年生が引退した後の投手を任される程だった。  あの決勝戦からしばらくは充足感に浸り有意義な日々を過ごせていた。しかし、兄が中学を卒業すると急にそれに対する興味を失い、僕は部活を辞めたのだった。  その後の高校時代でも僕の充足感を求める行動は続いていった。高校は兄と同じ学校へ通ったので日々顔を合わせる事も多く、何かとそのような機会も多かった。高校で兄は部活をやらずにバイトや趣味の読書に時間を費やしていた。この時期兄から奪っていったものは恋人や大学進学先などがあった。恋人に関しては特にその彼女が好みだったからという理由ではなく、兄が僕より幸せそうにしている事が許せず、あれやこれやと理由をつけて奪いとった。大学に関しても、頭の良い兄が僕より上のランクの大学に進学する事で周囲の期待がそちらへ向かう事を恐れ、地方の無名大学への進学を勧めた。  いつの時も兄はあの優しい目をして僕の要望を聞き入れてくれた。その都度、一時的には充足感に満たされて心地よい気持ちになるが、その気持ちは長く続かず手に入れてしまえば興味を失っていく、その繰り返しだった。彼女は長く続かなかったし、大学も有名大学を目指した訳ではなかった。  兄が地方の大学への進学を機に家を出てから僕の中には1つの変化があった。それはそれまで常に感じていた心の満たされない感覚がなくなった事だった。自分自身で比較の対象としていた兄の存在が薄まった為か、僕の周囲は僕だけを見ていてくれている様に感じる事ができ、心は平穏としていた。  そうやって特に目立った事はなく時が過ぎていった。兄は大学を卒業して、そのまま地方の企業へ就職した為僕らは顔を合わせる機会がほどんどなくなっていた。僕も大学生となりそれなりに大学時代を満喫していた、全てが上手くいっていたわけではないが兄と一緒に過ごしていた時の様な感情が芽生える事は無かった。そして、また1つの転機が訪れたのであった。  僕が就職活動で失敗して、希望に合う就職先がなくなり落胆している所へ、都合の悪い事に兄が職場での転勤で地元に戻ってくる事になったのだ。兄が地方へ行って以来平穏な日々を過ごしてきた僕に続けざまに好ましくない事態が降りかかってくる。また兄と過ごす日々が始まるのだ……。  就職が決まらずイライラしている所、兄が僕の部屋へきて言ったのだった。  「優二、お前就職なかなか決まらないんだって?」  「そうだよ……。わざわざそんな事確認しに来たの?」  「……いや、お前が困っているんじゃなかなと思ってさ」  「困っているに決まっているだろ! 当たり前じゃないか! 兄貴はいいよな、就職して地元へ戻ってきて会社でも出世コースなんだろ?」  「ん……、まぁ一応な」  「兄貴はずるいんだよ。いつもいい思いばかりしてさ。そんな兄貴に俺の気持ちなんか分かるわけないだろ! もう出てけよ!」  僕が理不尽に当たり散らしていると、不意に兄はいつかも見たあの優しい目を僕に向けてきた。  ――なんだ?この男は何を考えているんだ。僕を冷やかしたいのか?  そう思い沸騰した頭で言葉をぶつけようとしたその時、兄は意外な事を口にした。  「お前、小説家になってみないか?」  「はっ!?何わけの分からない事をいってるんだよ!」  「まぁ落ち着いて聞けよ。実は俺は小説を書いて、あるコンテストに応募していたんだ。それなにり大きいコンテストなんだ。俺の書いた小説はそのコンテストで大賞をとって書籍化の方向で動いている」  「なんだよ、自慢かよ!」  「そこでだ……。これをお前が書いた事にすればいいんじゃないかなと思っている」  「……、俺が書いた事にしてどうするんだよ。僕には文才なんてない。今回一時的に称賛されても、今後続かないじゃないか」  「だから俺がずっと書き続けて、お前の名前で発表する。いわゆるゴーストライターだ。そうすれば、俺が書き続けている間、名声はお前のものだ。どうだ?」  僕は話の意図を理解した。確かにうまくいけば僕は安泰だ。逆に僕がこの提案に乗らなければ名声は兄も元へいってしまう。そうなれば、また僕の中で不足感が発生して嫌な気持ちを持ち続けなければならなくなる。兄の真意は分からないが、この提案に乗らない手はない。そう感じた。  その後兄の小説はヒットした。書籍化された小説は売れて僕は表舞台に立つ事となった。初めの内は周りからの賞賛で気を良くしていたし、サイン会やら雑誌の取材など新鮮で僕は充足感を得る事が出来ていた。しかし、これまで兄から奪ったものと同様にこの充足感も長くは続かなかった。  自分になくて兄が持っているモノを奪い取っても充足感が満たされ続かないのはなぜなのだろう。僕は兄から奪い取る事で足りないモノを手に入れてきた。すんなり考えれば満たされ続けてもおかしくないはずだ。  ――なのになぜだ。なぜだ、なぜだ、なぜだ……。    ――僕の人生がこうなっているのは兄貴のせいだ。つまり……。今回こそきっちり奪い取ってやる……。  ある日僕は兄を近所の空地へ呼び出した。待っている間、僕は空き地の真ん中に立ちながら上方を見上げていた。夏の日差しが照り付け、肌をじりじりとさしてくるようだった。  兄が到着し、僕の前に向かってくる。歩いてきたのか僕同様に体表に汗をかきながら向かい合う。僕は前置きもなく兄に言葉を投げつける。  「こんな暑い中、呼び出して悪かったね。突然だけど兄貴から譲ってもらいたいモノがあるんだ」  「譲ってもらいたいもの? なんだよ急に」  「兄貴の命だよ」  兄の表情が一気に曇る。それもそうだ、いきなり呼び出されて弟に命をくれと言われているのだ。混乱しているに違いない。しかし、表情が曇ったのも一瞬だった。その後はどことなく安堵しているような表情を見せていた。その表情に僕の方がたじろいでしまう。  「急に呼び出してきたかと思えばそんな事かよ。それならそうと早く言えよな」  「えっ!分かっているのかよ!僕は兄貴に死んでくれっていっているんだぞ!」  兄の返答に戸惑い、声が大きくなってしまう。この男は僕が言っている意味を理解しているのだろうか?そんな疑問が頭をよぎるが、兄はちゃんと理解しているようだった。  「あぁ、分かっているよ。要するにお前の人生に俺は邪魔だって事だろ。今までお前に色々と与えてきたが、それでもお前は満足できなかった。そうだろ?」  兄は僕の心情をすっかりと言い表していた。僕の出した結論はまさにそうだった。兄が大学で地方に言っている間、僕の人生は平穏だった。何かを奪う事なく過ごしていても特に問題は無かった。しかし、兄がまた地元に戻って来た時から、僕の心は穏やかではなくなった。つまり、僕の人生に兄という存在がいること自体で僕の人生に平穏が訪れる事はないのだ。そう結論付けた結果、兄の命を奪い取る事で僕の人生に平穏が訪れる。そう考えたのであった。  「そうだよ! だから兄貴には悪いけど死んでもらう!」  僕はそういうとポケットに隠していたバタフライナイフを取り出し、兄に向けて言った。さすがに手が震えているのか刃先が小刻みに震えていた。兄はそのナイフを見ても表情を崩さず、こちらへ歩み寄ってくる。そして震える僕の手を、両手でふんわりと包み込んだ。  「こんなに震えて……、可哀そうに。怖いんだな。すぐにその恐怖から解放してあげるよ」  そういうと兄はいつものあの優しい目をしながら、僕の両手を自分の胸元へ引き寄せた。  あっけないと感じた。兄に誘導された僕の手が兄の胸元へ到達すると、少し間をおいて膝から崩れ落ちた。そして、また少しの間をおいて前のめりに崩れていった。  ――僕はやり遂げたのだ。兄から残りの人生を奪う事が出来たのだ。  感慨深げに僕は兄の姿を見下ろしている。すると、兄のズボンの後ろポケットから便箋の様な紙切れがはみ出しいてるのが見えた。それを拾い上げてみてみるとやはり一枚の便箋だった。その便箋には兄の字で数行の言葉が書きつけられていた。  『お前の考えている事は大体想像できる。だからお前に俺の人生を与えてやる。その代わり俺は自分の死と引き換えにお前から残りの人生を奪ってやるんだ』                                  (了)
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