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──と、そのとき、時を見計らったように、マスターが店に戻ってきた。少し早すぎる気もしたけど、これはこれで都合がいい。
「おかえり、センセ。帰ってきて早々悪いんだけど、シャンパン出してよ。三人で乾杯しよ。センセにも聞いてほしい話があるんだ」
言うとマスターは、にわかうれしそうに頬を緩めた。
「ドンペリなんかないぞ。安物のシャンパンでいいか」
「いいよ。あたし、ドンペリにいい思い出ないし」
「客にかなりねだったくせに、そいつらは報われないなあ」
ややあって、マスターがシャンパンを出してきた。丁寧な所作で封を切り、コルクを抑えている王冠を解いて、瓶を回しながら栓を抜いた。ポンッという爽快な音が、未来を祝福してくれているようで、気分が爆上がりした。
三つのグラスに、ビールとは違う黄金色が注がれる。弾ける泡も上品で、これこそ至上のお酒だ、という気分になった。
「じゃあ、珠莉の合図でいこうか」
マスターが言い、それぞれにグラスを持った。あたしはコホンと咳払いして、アゲアゲな自分を丸出しにして言った。
「幸せな未来に! かんぱーいっ!」
くいっと一口飲めば、とろっと脳髄が蕩けた。心地よい酔いが幼いあたしを導き出し、もう構うものかと市村サンの腕にしがみついた。
「センセ、あたしたち結婚するの。多分、だけど、絶対──。そのためにあたし、今まで出したことない全力出すって決めたんだ」
へえ、とマスターは目を細めた。
「晋二朗くんは、珠莉のことを受け止められるかね。でも、初めて会ったときから似合いだと思っていたよ。まあ、男女のことだ。いくつも諍いはあるだろう。無事に婚姻届を出せたなら、いい感じの二次会場を用意してやろう」
あたしにはもう、その未来しか見えなかった。だけど、勉強なんか大嫌いだった女が、今さら大学に合格するなんて生半可なことじゃないだろう。きっとたくさん嫌になって、きっとたくさん投げ出して、きっとたくさん彼を困らせるに違いない。
それでも絶対に手に入れるんだ。
婚姻届と、二人の暮らしを。
あたしは終わらないよ。
むしろ、ここから始まるんだ。
木沢珠莉の本気を見ていて。
あたし、市村サンのためだけに頑張るんだから!
だって本当に、大好きなんだから!
その夜は、三人で朝まで飲み明かした。
心地よく酔って外に出ると、冬暁に身が引き締まり、心の奥の小さな泉から、清らかな芽が立ち上がってくるのを感じた。
あたしはその芽を生涯かけて愛でていこうと思った。
これは、市村サンとあたしが二人で育てていく、未来に咲く大切な花なのだ。
(了)
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