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やばい。もう涙が溢れてきた。惨めに泣いて縋りたくはないけど、何したって言いたい言葉は一つしかないんだ。
「あたし、市村サンが好きだから。ほんとに大好きだから。たった一年でもいいの。市村サンの時間を、あたしにください。お願い、します……」
うわああって叫び出したかった。あたしってこんな女じゃないのに、どうしてだか彼の前では幼い女になってしまう。初恋だってこんなに初心じゃなかった。初めて男と寝たときだって、こんなに恥ずかしく、一生懸命に好きじゃなかった。彼を見ているだけで胸が苦しい。心臓が自分のものじゃないみたい。もう何だかよく分かんないけど、とにかく彼のことが好き過ぎて、頭から湯気が出てきそうだ。
市村サンは、考えるような仕草でグラスに口をつけた。黄金色の液体の中を、透明な泡が駆け上っていく。苦さに満ちた恋みたいな泡が、とても美しく見える。
「珠莉さん」
彼はグラスを置き、あたしに向き直った。
「一つ、賭けをしましょうか」
と言い、彼は微笑んだ。
「来年の受験まで一年間、ぼくは徹底的に勉強を教えます。手抜きはしません。厳しく叱ることも、大量の課題を与えることもあるでしょう。それをすれば、限りなく合格に近づくぐらいのことをします。大学をどこにするかは話し合って決めますが、珠莉さんは必ず合格してください。合格発表の日、桜が咲けば珠莉さんの勝ちです。ぼくはその日、婚姻届に判を押し、あなたに手渡します。できたら二人で、役所に行けたらいいですね」
あたしはふと、疑問に思い訊ねた。
「不合格だったら、市村サンの勝ちってこと?」
すると彼は、自嘲気味な笑みを見せた。
「全力で勉強を教えるんです。不合格だったら僕の勝ちでは不自然です。前提に不合格を置くことは好ましくありませんが、そうしたらもう一度、一年間やり直しです。珠莉さんが合格を勝ち取るまで付き合いますよ。だって、珠莉さんは何も終わっていないのでしょう?」
言われた言葉を頭の中で繰り返し考え、あたしはまた訊ねた。
「じゃあ、何を賭けるの? どうしたら、市村サンの勝ちになるの?」
合格するまで付き合ってもらえるなら、勝者はあたししかいないはずだ。彼は何をもって賭けと言い出したのだろうか。
「ぼくの勝つ条件は、あなたがぼくに飽きず、ちゃんと夢を叶えることです。ぼくは正直、面白い人間ではありません。華やかな世界にいた珠莉さんにとっては、物足りなく思うときも多いでしょう。金銭的にも肉体的にも満たせないと、前もって宣言したはずですよ。それでも、ぼくと結婚するために、あなたが飽きず、合格できたなら、それがぼくにとっての勝利です。ぼくは自信がないんですよ。こんなにきれいな女性である珠莉さんが、ぼくなんかのために本気で頑張ってくれるのかどうか。まあ、たとえ自信がなくとも、ちゃんと勉強を教える約束は守りますけどね。ぼくはあなたが終わってないと言ったとき、おそらくは人生で一番うれしい言葉をもらった気がしましたから」
あたしはもう涙を隠さず、ぼろぼろとそれを落とした。こういう人だから、好きになったんだ。こういう人だから、騙されてもいいって思ったんだ。アヤカやエリーがどんなに優れていても、こういう人と出会えたあたしは誰よりも幸せ者だって思えるんだ。
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