《揺蕩のシズカ》

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 不意に部屋の外から、香ばしいパンの匂いが漂ってきた。同時に、フライパンで何かを焼く音が聞こえた。仮にここが知らない男の家で、その人が家族に内緒であたしを連れ込んだとしたら、キッチンに顔を出すと揉める可能性がある。誰かさんが迎えに来るまで、ここで過ごすしかないか。情報を集めたって無駄なことだ。あたしはとりあえず窓を開け、テーブルに置いてあった煙草に火をつけた。細く煙を吐き出し、時が来るのを待つしかないのはもどかしい。  そうして五分ほどが経った頃だろうか、部屋の扉が外側から開かれた。三十代半ばらしき背の高い男が、トレイに料理とコーヒーを載せて入ってきた。 「ああ、起きてましたか。おはようございます」  あたしは煙草を揉み消し、その人の顔をじっと見つめた。やはり知らない男だ。視線に警戒心が出ていたんだろう、彼は申し訳なさげに微笑み、名を名乗った。 「ぼくは(いち)(むら)と言います。市村(しん)()(ろう)。名刺を渡しましょう。個別指導塾の講師をしています。ええと、名刺はどこにあったかな」  彼はデスクの引き出しを開け、その中をごそごそとやった。見つからなかったようで、別の引き出しを漁り出す。あたしは壁にもたれかかりながら、冷めた感じに言った。 「別に名刺をいただかなくても結構です。それよりも昨夜(ゆうべ)、何があったか教えてもらえませんか。あたしは別の人と一緒にいたと思うんですけど」  パンの上の目玉焼きが、胃に刺激的な匂いを放つ。窓の近くで小鳥が鳴いた気がして、何気なく外を見た。 「ええ、そうですね、他の男性と一緒でした。でも、お二人で口論していたんですよ。どちらもしたたかに酔っていたようで、ひどい言葉の応酬でした。特に男性の方は、あなたの、その、性に関することを口汚く罵っておられて、挙句あなたの頬を殴ったんです。ぼくはたまらず仲裁に入り、その方には誠意を持って注意し、帰っていただきました」  ああ、何となく思い出してきた。鈴島さんが道を歩きながら胸を揉んできたんだ。普段なら笑って済ませたけど、昨日のあたしはとても短気な状態だった。つい本気で嫌がり、そして口論になって、()()()していることを罵られたんだっけ。
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