前編

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前編

「昨日、中央小学校で事件が起きました。犯人は、20代の女性教諭。彼女が、クラスの不登校だった生徒をそそのかし……」 聞きたくない。テレビを切った。   両親の離婚、転校。人生にターニングポイントがあるのなら、きっと現在なのだろう。不条理な現実が、神谷少年の心を粉々に砕いていた。そこにいじめ、と言う要素が加わり彼が自殺を考えるようになったのは、必然だと言わざるを得ない。  授業開始のチャイムが、学校中に響き渡る。今日のはやけに大きい音だ。耳鳴りがして、足を止める。あと五歩歩けば教室だ。地獄の場所。それでも、休むことだけはしたくなかった。母親に耳が痛いほど言われた教えだったから。  がらがら、と扉を開ける。皆の視線が集まる。 「また遅刻ね」 佐々木先生はため息をつきながら、出席簿に何かを書き込む。見てみぬふりをする天才。新卒でクラスを受け持つ重圧と、いじめという問題が彼女の整った顔を疲労で包み込んでいた。 遅刻しなければ、先生が来るまでの時間にまた何かを仕掛けられる。一昨日のそれは、バケツの水浴びだった。彼女はその日教室に来て、ずぶ濡れの僕の顔を見るなりこう言った。 「神谷くんの周りだけ雨が降ってたのかな」 その発言は、クラスを笑いで包み込む。先生が後で持ってきたタオルは、使わずにそのまま返した。  自分の机はいつも通り、汚い言葉で埋め尽くされている。毎日文字が上書きされ、今では何と書いてあるかすら、認識できない。椅子は掃除箱の中に無理やり詰め込まれ、箒などが外に追い出されていた。今日はまだマシか。視線を落としたまま、椅子を取りに行く。通路に出された足に引っかかるふりをして、よろける。ははは、と嬉しそうに鈴木が笑っていた。いじめの主犯格。彼の顔は、僕が今まで出会った誰よりも醜かった。 「こら、田中くん」 佐々木先生は、足を引っ掛けた田中くんだけを優しく叱った。 椅子を置いて席に着く。一番後ろに位置する僕の席からは、クラスがよく見渡せた。空いている席は二つ。僕の会ったことない金原という女の子と、山田くんのものだった。  がらがら、と小さな音がして扉に目を向ける。 「山田くん。久しぶりね」 先生が消え入るような声でそう言った。顔を上げると、そこにはおよそ半年ぶりに見る山田くんの姿があった。山田くんの手に何かきらりと光るものが見える。 「久しぶり、先生」 山田くんはそう言いながら、先生には目もくれず先頭に座る鈴木くんにそれを突きつけた。一瞬の出来事だった。呆気に取られていた僕がナイフを認識した時、頭に響いていた耳鳴りがぴたりと止んだ。 「お、お前なにすんだ」 鈴木くんのあんなに慌てた顔は初めて見る。教室がざわめき立つ。 「黙って、俺の言うことに従え」 山田くんは、片手で鈴木くんの首を捕まえるともう一方でナイフを突きつけたまま、教壇に立った。 「や、山田くん。やめなさい」 山田くんは、佐々木先生の方を一瞥すると教室を見渡した。 キーンコーンカーンコーン。空気の読めない校内放送が沈黙を破った。 「6年3組、鈴木仁を人質にとりました。6年2組以外の生徒と教師は、放送を聞き次第、グラウンドへ出て行くこと。それ以外の動きをすれば即、鈴木仁の命はなくなります」 聞いたことのない声。だが、みんなの反応を見るにそれは金原の声のようだった。キーンコーンカーンコーン。 「や、やめてくれ」 鈴木の声は震えていた。ざまあみろ、咄嗟にそう思ってしまったのも無理はないだろう。 「今から、俺の言うことに従え」 山田くんは淡々と喋り続ける。 「先生、画鋲取り出して一人に一つずつ配って」 硬直した先生を見て、山田くんが鈴木くんの喉元に突きつけたナイフを見せつける。 「わかった、わかったから」 先生は急いで引き出しの画鋲を取り出すと、震える手で一人ひとりの机に置いていった。カタ、画鋲が机の上に置かれる度に、前に座る女子の肩がビクッとなるのがわかった。  先生が画鋲を全て配り終えると、山田くんは元の位置に戻るよう指示した。教壇の横に震えながら歩いていく彼女の姿は、どこか滑稽だった。 「じゃあ、今からクラス全員俺の指示に従うこと。従わなかったら……、わかるよね」 山田くんはかつての面影をなくしていた。彼と初めて出会ったとき、彼はパンツ一丁で震えながら制服を着ているところだった。初めて見る光景に僕が口を開けていると、大丈夫だから、と彼は微笑んだ。まもなく僕がいじめられるようになって、大丈夫?と声をかけてくれたのは彼だけだった。あの時、あまり会話ができなかったことを今でも後悔している。彼が初めて早退した日、僕はなぜだか友達を失ってしまった気持ちになった。  山田くんはクラス一人ひとりの顔を舐め回すように見た。彼と目が合わなかったのは、僕だけだろうか。 「画鋲を手にとったら、それを左の手首に突き刺せ」 「そ、そんな……」 山田くんは、ナイフを僅かに上下へ動かす。わかっているだろうな、そう言いたげだった。皆が震えているのが見える。誰も、実行しようとはしない。「俺、まだ生きたい……。山田、謝るよ。悪かったよ、だからお願いだ。やめてくれ……」 鈴木の声はかすれていてほとんど耳に届かない。彼の命にすがりつく姿は、僕にとって新鮮だった。生きたい、か。その言葉にどこか引っかかりを覚えた。「みなが、言ったことを守れば良いんだ。大丈夫、そんなことをしても死にはしない。あと5分待つ。その間に、やれ」 カタカタカタカタ……。誰かの貧乏ゆすりが聞こえてきた。田中が、震えるその手で画鋲を手にとっていた。左手にゆっくりと近づけていく。 「やめてくれ、俺がやるからみんなは巻き込まないでくれ……」 田中は声も手も震えているのに、なぜかナイフを持つ山田くんに立ち向かおうとしていた。田中にとって鈴木は、ただの怖いだけの存在だはなくれっきとした友人だったのか。
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