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後編
「は? 虫が良すぎるな。命も助けて、こちらの指示も守らないとは」
山田くんは、僕の中で違う誰かになった。鈴木は必死に命乞いをしている。必死なのに、怖がっているのに、彼はいつになく優しい目をしていた。彼のまだ生きたい、という言葉には生に対して明確な目的を持っていることを感じた。僕とは違う。彼は、生きるべきなのかもしれない。
バン! 気づくと僕は、立ち上がっていた。
「山田、僕が彼と人質を変わるよ」
「は? 神谷、なに言ってるんだお前」
山田は、信じられないという目で僕をみた。クラス中の視線が僕に集まるのを感じた。
「お前の命、こいつにかけるのか?」
鈴木も信じられないという表情をしている。まあ、最もだろう。僕は別にあいつを助けたいわけじゃない。けれど、あいつのなかに今まで知らなかった何かを見た。死にたいと思っている僕と、まだ生きたいと思っている鈴木。変わっても良いかな、そんな気がしただけだった。
「良いんだ。手を汚すなら僕にしとけ」
僕は死にたいから、その言葉は飲み込んだ。人質の意味がなくなってしまうからだ。けれど、僕の部屋には既に遺書がある。その存在が見つかれば、山田の裁判も少しは有利に進むかも知れない。
「や、やめろ」
鈴木は額に汗を書いたその顔で、目をパチクリとさせていた。
「お前、何のつもりだ。俺のこと、嫌いだろ」
「ああ、嫌いだ」
僕はゆっくりと前に歩いていく。両手をあげて、敵意がないことを示す。
「何でこんな奴のために? お前、こいつのことを殺したいと思わないのか?」
「そうは、思わない」
僕は自分でも不思議だと思った。どうしてあんな憎たらしいやつのことを、助けようとしているのか。目の前の鈴木は必死に生を求めていて、死を目の前にした彼はいつもより弱くて強かった。それが死にたい僕の心を動かした、それだけは確かだ。
「人質の交換は、認めない」
山田が、冷たく言い放つ。
「待って!」
声の主は、先生だった。先生は、左手を上げる。ポタ、ポタ……。先生の手からは血が滴っていた。彼女の目は座っている。画鋲を配っていたときの彼女とは、まるで別人だった。
「私が、変わるわ。それなら問題ないでしょう」
山田の顔が一瞬引きつった。
「どうして、先生が……」
その疑問は、僕に対するそれとは別物だと気づいた。僕も彼と同じように思ったからだ。
「ごめんなさい、山田くん。あなたをこうしてしまった元凶は、私よ。守ってあげられなくて、ごめんなさい」
先生は静かに山田の方へと歩みを進める。僕の横を通ったとき、彼女は悲しそうな顔で笑った。口を僅かに動して、声を出さずにありがとうと言った。
「待て、まだ変わるとは言ってない。お前の言うことなんて聞くか」
山田もきっと、これまで先生に何度も裏切られてきたのだろう。
「あなたは、私のことが憎いはずよ。人質は私がする。私は、あなたに殺されたとしてもあなたのことを憎まない」
さあ、そう言って先生は両手をあげた。先生と山田の距離はあと二歩分くらいしかない。
「本当だな」
山田がそう言って、ナイフを振りかざした。先生が避けると思っていたのだろう。避けられる距離、だった。だが、先生はそこに微動だもせずに立っていた。 左の頬から胸元にかけて、ナイフは先生に傷をつけた。傷口から、じんわりと血が滲み出る。
「どうして……」
山田はまた、そう言った。 もういい、彼がそう言ってナイフを手から振り落とした。先生はしゃがみ込み、山田のナイフを手に取った。
「山田くん。私にできることはこれくらいしかない」
先生は山田くんの腕を取り、ナイフで僅かな傷をつけた。血が出ているのに、彼女はなぜだか少しも痛くないような顔をしていた。
「これで、正当防衛よ」
さあ、と先生は立ち上がる。
「いじめの問題で心身喪失していた私が、山田くんと金原さんにこの話を持ちかけた。人質を取ったのは私。山田くんは見張り係として立っていたけれど、鈴木くんが居たたまれなくなって私と揉みあいに。その末にできたこの傷に驚いて、私は戦意を失った」
「そ、そんなの」
いいの、と先生は山田くんの頭を撫でる。
「それなら俺を悪者にしてくれ」
そう発言したのは、鈴木くんだった。
「鈴木くんはそうでなくてもいじめの加害者として、悪者になるもの」
「みんな、今までのことを反省しているのなら、私の言ったことを真実とすること。今回の事件の責任は、私にある。それは間違いないの。でももちろん、みんなにも責任はある。いじめを見過ごした責任といじめた責任よ。今後の人生は反省しながら生きていきなさい」
一週間後、ひさびさに登校した。外に出るとマスコミがうるさくて、登校どころじゃなかったのだ。 今朝も三人ほど待ち伏せていた奴らがいたけれど、父が車で送ってくれた。近くでおろしてもらい、時計を見ると始業10分前。この時間ならチャイムに間に合うかも知れない。そんなことを考えながら、早歩きをする。
「神谷、待ってくれ」
振り向くと、鈴木が息を切らしていた。
「俺、本当にごめん。お前たちに、酷いことした。わかってたけど、なんていうかやめられなかったんだ」
鈴木は地面に膝をついて、そのまま俺に土下座をした。初夏のコンクリートは、じんじんと熱を帯びている。
新聞で読んだ。鈴木が、家庭で暴力を受けていたこと。その憂さ晴らしをしていたこと。どこまで本当かはわからないけれど。
「鈴木んち、報道陣が駆けつけて大変なんだってな」
「それは、神谷んちもだろ」
ああ、と言って頷く。僕の家族の事情もきっちり書かれていた。離婚、引っ越し、そして転校先でのいじめ。僕はかわいそうなやつであり、ヒーローでもあるみたいだった。 どうして人質を変わろうと思ったんですか。同じ質問が次から次へと飛んでくる。どうしてそんな個人的なことを答えないといけないんだ。別に、その一言で対応していると、今度は気取らないところが良いと評判になった。 これからこの報道は、どのくらい続くのだろう。山田、鈴木、先生、そして僕のことはどのように描かれるのだろう。
「鈴木。お前に、聞きたいことがあったんだ」
「な、何だ?」
「鈴木はあの時、生きたいと思ったのか? それとも死にたくなかった、だけか?」
「俺は、ずっと死にたいと思ってた。だけどあの時、妹の顔が浮かんだんだ。五つも下でさ。俺が守ってやらないと」
家庭内暴力から妹を庇ってあげているのだろうか。よく見ると、彼の首元には青いあざがついていた。鈴木は、俺の顔をじっと見た。
「それに、もう一つ生きる目標ができた」
「なんだよ、それ」
「俺、一生かけて償う。山田や金原、お前にしたこと。お前が助けてくれた命で、償うから」
彼は、まるで僕のことを助けようとしているかのように思えた。許すか、許さないか。彼の今後を見ても良いかも知れない。
「もうすぐ卒業だけどな」
俺の独り言に鈴木は振り向いて笑顔を見せた。
「一生だって言っただろ」
「そんなことされたら、余計に許さねえよ」
こんな奴に一生付き纏われるのはごめんだ。俺はおもむろに嫌な顔をする。 だが、ふと思った。このまま、人生終わってしまうのはもったいない気がする。
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