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願望
蓮に連れられて何度も屋内温水プールに通った。遊園地では浮くことが出来たからその先に進みたい。
けれどなかなか進歩しない自分を不甲斐なく感じて、ジェイはどんどん引け目を感じるようになり始めた。なにしろ蓮の両手に手を載せて蹴伸びをするところから進まない。
「蓮、もういいよ」
「諦めるな。ちゃんと泳げるようになるから。ある時、いきなり泳げるようになるもんさ」
「……そういうもの?」
「そういうもんだ」
「蓮が泳げるようになったのはいつ?」
「俺は……」
嘘を言っても仕方がない。そういうところでジェイとの中に妙な歪みが出るのを蓮は嫌った。
「俺は幼稚園の頃。5歳くらいかな。泳げて当たり前なんだ、スイミングスクールに通ってたんだから。そこじゃ泳げるようにするための専門のコーチがいる。だからどんな子だって泳げるようになる」
「5歳……俺、」
「お前はそんな環境にいなかったろ? だから泳げなくたって仕方ない。子どものうちって体が柔軟だからいろんなことを受け入れられる。その中で専門家に教わるんだから」
蓮が言う意味は分かる。もし自分が同じ状況ならきっと泳げただろう。けれど……
周りを見回してみる。みんながすいすいと泳ぐ中、自分のやっていることは蓮の手に捉まっていることだけだ。
突然、その恥ずかしさが違うものに変わった。
(俺のせいで……蓮が笑われてる。きっと笑われてるんだ)
そうなるともうだめだった。蓮に行こうと誘われても泳ぎに行くのをやめてしまった。
次の年、社員旅行で河口湖に向かった。途中、花に誘われてアスレチックに寄った。思ったより体が動いて、元々は体を動かすことが好きなジェイは久しぶりに全身運動を堪能した。
「お前ってほら、見た目どんくさそうだから」
花に屈辱的なことを言われてジェイは俄然張り切った。花にいいところを見せたい。そのきびきびした動きを見て、花は認識を改めてくれた。
そして、事もなげに花に誘われる。
「来年さ、海に行こうよ」
「海?」
「泳いだりダイビングしたり」
ギョッとした。まだ泳げない。けれど当たり前のように言う花に、出来ないとは言いたくない。
(蓮に海で泳げるくらいに泳ぎ習わないと!)
口では『いいね』と言いながら、頭の中では焦っていた。あれきり練習をしていない。けれどこのままじゃ花に笑われる……
その後、サイクリングを教えてくれた広岡からも「水泳を教えてやるよ」と言われてジェイは死に物狂いで頑張った。広岡の特訓は厳しかった。
「顔をつけたって溺れない、水中に入ったら全身から力を抜く!」
そして蹴伸びから次の段階に移ってから、蓮にプールに行きたいと頼んだ。
「久しぶりだっていうのに泳げるようになってるじゃないか!」
連れて行ってくれた蓮は自分のことのように喜んでくれた。それが心から嬉しい。
「上手い上手い! 俺の手に捉まらなくても進んでるぞ!」
蓮は甘い。ほんの5メートルほど泳いだだけで大喜びしてくれる。正直言って、泳いだというほどのこともない。だからこそジェイは大きな期待に応えようとした。
時計を見て蓮がプールから上がろうと言った。
「少しは休憩しないと。俺、トイレに行ってくるよ」
蓮がちょっとそこを離れている間。ジェイはこっそりプールに入った。少しでも長く泳いで蓮を驚かせたい。
気持ちはあっても体は充分疲れている。けれど気が急くからそこに気がつかない。突然、足がつった。水に沈んで足を押さえる。足掻くように今度は手が空しく水の中に揺れた。
(れん、れ、……)
もう駄目だと思った時、力強い手に腕を掴まれた。がばっと水面に顔を出して、ひどく咳き込んだ。
「大丈夫か! ジェイ、ほら、俺に捉まれ!」
力無く蓮の体にしがみついた。その背中を蓮の大きな手が擦ってくれる。
落ち着いて、プールサイドにやっと上がった。
「バカ! なにかあったらどうするんだ! 俺のいないところでプールに入るな!」
「ごめ、なさい、もっと、泳げるの、見せたかった、んだ」
まだ咳が出るジェイが可哀そうになる。蓮の声が優しくジェイを包んだ。
「焦るな。ちゃんと進歩してるから。来た時は5メートルしか進まなかったろ? 今はその倍は泳げるようになってる。今度は泳ぎながら呼吸をするのを覚えよう。けど俺のいるところでだ。もうさっきみたいな思いはしたくない……」
トイレから戻ってジェイの姿が見えないことに蓮は慌てた。そして、そんなに離れていないところで大きな水しぶきが上がったのを見てプールに飛び込んだのだ。
「うん……そうする」
蓮はジェイの足をマッサージした。足が強張っているのがはっきりと分かる。
「今日はここまでだ。足がパンパンになってるよ。帰ってゆっくり湯に浸かろう」
車の中でも蓮は優しくジェイに語りかけた。
「体って不思議なもんだ。何年も経って久しぶりに自転車に乗ったってちゃんと漕ぐことが出来る。水泳も同じだよ。一度泳げるようになったら体がしっかりと覚えてくれる」
「俺……花さんにダイビングに行こうって誘われて……だから泳げるようになりたいの」
「そうか、スキューバダイビングか! あれな、泳げなくたってやれるんだぞ」
「え? 海の中なのに?」
「そう聞いたことがある。一度一緒に行ってみるか。ダイビングは俺もやったことがない。向こうではちゃんとプロのダイバーがついててくれるから安心だよ」
「ほんと? 俺でも出来るようになる!?」
「なるよ。花にいいとこを見せてやれ」
「うん!」
なんでも出来る花と対等になれる。そのことがなにより嬉しかった。
帰宅して蓮はバスタブに湯を張った。出てきたジェイの体をマッサージしてやる。ジェイはその心地よさの中で眠りについた。
(本編第一部「7.恋人」第八部「7.楽しんでいいんだ」より)
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