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そこには、もはや原型など分からないものが散っているはずだった。ところが、残っていたのだ。蝶の頭が。
黒々と輝く二つの丸い眼。そのすぐ近くから上に真っ直ぐ伸びる細い二本の触覚。そして、くるりと丸まった細長い口。
踏み潰したはずだ。全部粉々に踏み潰したはずだ。――それとも踏み損ねたのだろうか。
『――ああ』
狼狽える彼女の耳に声が聞こえた。成人した女性のやや低めの声がズキンと頭に響く。とっさに辺りを見回したが、彼女以外、近くに人影はない。
『――ああ、なんて美しい』
また声だ。同じように響いて聞こえ、彼女はまさかと思いながら踏み荒らした地面に残っていた蝶の頭を見下ろした。すると、黒々とした蝶の眼もまた彼女を見つめていた。
その眼は、まるで黒曜石のように艶やかで、吸い込まれるような輝きを放っている。
黒い輝きの中に自分の顔が写り込んでいると気付いた時には既に遅かった。蝶の頭はみるみるうちに大きくなって、彼女を呑み込もうとしているかのように彼女の顔に差し迫ってくる。
くるくると丸まった蝶の口が彼女の頬に触れそうなくらいに近付く。その頃にはもはや蝶の頭は彼女の顔よりもずっと大きくなっていた。
『お前の殺意は美しい』
蝶が言った。
丸まった口が動いたわけではないが、蝶が言ったのだと彼女には理解できた。大きくて丸い黒い眼がじっと彼女を見つめている。
『妾わたしは、美しいものが好きだ。お前に力を貸してあげても良い』
指先が震える。膝も震えている。足に力が入らず、今にも倒れてしまいそうだったが、と同時にまるで体を動かせなかった。
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