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逃げた方がいい。頭では分かっていたが、震えるばかりの足が言うことを聞かず、逃げることができない。
普通の蝶であるはずかない。見れば、人間の大人ほどの大きさになった蝶には細い胴体までくっついていた。ふわふわと柔らかそうな産毛に覆われた胸部から、黒く、枝のように細く長い足が六本、突き刺さるように生えている。
普通の蝶ではないのなら、何だ? 怪物か、化け物か。それらではないとしても、妖精や天使の類だとは到底思えなかった。
良いものではない、きっと悪いものだ。関わってはならない。口を利いてはならない。目も合わせてはならない。一刻も早く逃げなくては!
だが、どうしたわけか、美しい。彼女は蝶が大きく広げた群青色の翅に見とれた。
こんな美しくて恐ろしいものがこの世に存在するなんて。
『お前には心から殺したいと願う相手がいるのだろう? 力を貸してあげよう』
「…ち、から……?」
ダメだと思いつつ、ほとんど反射的に掠れた声が口から洩れた。
『そう。力だ。妾がお前に力を貸そう。その力でお前は憎い相手を殺せばいい。――さあ、どんな殺し方をしようか。焼こうか、引き裂こうか。それとも、ぺちゃんこに潰してしまおうか。ああ、駄目だ。それでは、いけない。ただ殺すだけでは足りはしない。死んで、相手が神のもとに行ってしまってはつまらない。殺す前に闇に引きずり落とさねば。神が毛嫌いするくらいに汚してから殺そう』
「……神様が毛嫌いするくらいに?」
『ああ、愚かな子。神に《さま》なんて敬称をつけるのはおよし。あんなのに祈ったって、お前を救いはしないのだから』
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