一線を越えた夜

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一線を越えた夜

「あの、どうしたらいいんでしょう?」 「とりあえず、自分の思ったように動けば いいんですよ。どんな感じが好きですか?」 「すみません・・・初めてなもので、 よく判らないんです」 「俺だって初めてですよ? こんな、シチュエーションは」 外部を遮断する幕の中、 声をひそめ身体を寄せ合う2人の間に、 それ以上言葉は必要なかった。 俺は息を殺しながら彼を見つめ、 頬を染めつつわずかに口元を緩め始めている 彼の唇が動き出すのを待った。 いったい彼は、 どんな嗜好を持つ人なんだろう。 赤面し、 時々この状況に耐えられなくなる余り、 逃げ出そうとする彼を羽交い絞めにしながら、 プリクラを撮る羽目になったのには、 もちろん理由がある。 フロアで彼を一瞬だけ抱きしめた後、 俺に何を求めているのかを尋ねると。 「望むところに連れて行ってくれるんですか。 川瀬さんの好きなところで構いませんが」 「それは却下です。あえて口にすることで、 見えてくる気持ちもありますから」 「・・・本当に、どこでもいいんですか?」 「もちろん」 「実は、ずっと憧れていた場所があるんですが」 「どこですか?」 「今まで自分には場違いなところではないかと 思っていたんです」 「とりあえず、言ってみてください。 笑いませんから」 「恥ずかしいです」 「大丈夫、素直になって」 「あの・・・その前に、どうして僕が その場所に憧れているか、お伝えしても いいですか?」 「いいですよ」 「僕の自宅は、下北沢なんですけど」 「いいところに住んでますね。 ちなみに俺は、初台です」 「川瀬さんこそ、いいところに 住んでるじゃないですか・・・って、 そうではなくて。新宿にも渋谷にも 行きやすい場所なんですよね、 下北沢というのは」 「はい」 「で、女子高生を」 「・・・へ?」 「女子高生の生態を知るべく、 たまに彼女たちの後をそっとつけて」 「はあ?」 「言っておきますけど、コピーの勉強のためです。 いろいろなものに興味感心を持つことは、 仕事にそのまま結びつきますので」 「あ、はい」 「彼女たちがあれだけオーラを放っているのは、 自分に自信があるからなんですよね。 いつも強気で、キラキラしていて。 そしてとても、撮られることに慣れている」 「・・・岸野さん?」 「僕は、彼女たちがあの機械に次から次へと 吸い込まれるのをずっと見ていました。 彼女たちを引き寄せるあの機械のどこに そんな魅力があるんだろうと、 惹かれていくのを止めることができなかった」 「あの機械って、まさか」 「写真がシールになって出てくるなんて、 いったい誰が考え出したのでしょう」 「やっぱり・・・」 さすが、広告賞を取るだけのスキルを 持つだけのことはある。 タダ者ではないと予感した通り、 感覚が突出し過ぎていると思わず 苦笑いしてしまった。 「やっぱり、笑うじゃないですか」 「いえ、そういう意味ではなくて。 じゃあとりあえず、行ってみますか」 「・・・ええっ?本当に?!」 「何事も、チャレンジですよ。岸野さん」 「はい・・・あの」 「何ですか」 すっかり気を良くして返事をした俺に、 彼はぎこちない微笑みを浮かべながら、 こう言った。 「今夜は、僕が望んでいることを全て 叶えてくれると、思っていいのでしょうか」 「・・・え」 言い淀んでいる俺をよそに、 立ち上がり傍らに置いた鞄を手に取って彼は、 畳みかけるように言葉を続ける。 「素直になっていいんですよね、川瀬さん」 「!」 彼はいったい何を望み、 その時間を俺と分かち合おうというのか。 この微笑みに応えたら、 きっともう今までの自分ではいられなく なると思った。 不覚にもこの瞬間から、彼を翻弄し、 自分のペースに巻き込もうとしていた ことを忘れ、彼の一挙手一投足に対して ただ素直にかつ敏感に反応するだけの、 情けない男になり下がってしまうのだった。 渋谷のゲームセンターでプリクラを撮り、 興奮を隠しきれない彼が、 次に指定してきたのは、下戸の彼でも 口にできるカクテルを多く用意しているバー。 「あの店に、しようかな」 頭の中で、 思い当たる店の外観を思い浮かべる。 「もう決まったんですか? 川瀬さん、結構行かれるんですね」 「接待とか仲間内で、ちょこちょこ 行くくらいですよ」 「なるほど・・・僕が仕事終わりに 寄るとしたら、スーパーか本屋なので」 「職場の人とは、食事したり飲んだり しないんですか」 「ええ。本当に、仕事だけです」 少し寂しそうに微笑む彼を見て、 違和感を抱いた。 同じ部署のメンバーとは? あの一件の黒幕は、彼である事は 間違いないはずなのに。 人との繋がり方が、俺とは違うのだろうか。 数分後、彼を連れて、 目的の店のドアを押し開けた。 その向こう側、 カウンターだけの店内を目にした彼が 驚きの声をあげた。 「すごい」 彼が感嘆の表情を露わにしている対象は、 カウンターの後ろ。 天井にまで届く棚に隙間なく並べられて いる瓶の数々。 「これ、全部カクテルの材料ですか?」 「そうですよ。組み合わせてカクテルを 作るんですから、いろいろベースがないと」 「僕が飲めるような、口当たりのいいものは ありますかね」 「あると思ったから、連れてきたんですよ」 「楽しみだな・・・」 そう言って微笑みをたたえメニューを 眺める彼の横顔を、黙って見つめた。 今までたくさんの女性を喜ばせるために、 ありとあらゆることをしてきたつもりだった。 つかの間の征服欲を満たすため、 本能的にそうしたいと思えばそれに従う。 所詮、ベッドインするまでの演出。 だから時にはシンプルかつストレートに、 時には駆け引きを展開しながら 「完結」に向かって行動を起こしてきた。 それなのに今は、 ひたすらこの笑顔を見ていたい。 俺の愚かで短絡的な思いを遂げて、 彼を壊すことは絶対にしたくなかった。 「川瀬さん。決まりましたか?」 「あ、ううん。まだ」 慌てて彼が広げるメニューを覗きこみ、 指を差す。 「これがいいかなあ・・・」 「ええ。キレイですね。川瀬さんみたい」 「え」 彼の言葉に驚き顔を上げると、 さっきよりも微笑む彼が俺をまっすぐ 見つめている。 「この間は、意地悪してしまってごめんなさい」 「あ、いや。大丈夫ですよ」 思うような反応ができなくて、 そっけなく返事をしてしまった。 「岸野さんは決まりました?」 慌てて目を逸らし、 カウンターの内側に控えていた バーテンダーに向かって軽く手を上げる。 「はい。川瀬さんと同じものにします」 「大丈夫?もしかしたら、これ結構 お酒がキツイかも知れませんよ」 バーテンダーさんに訊いてみたらと 言いかけたが、彼の次の言葉と重なり、 宙に浮いた形になった。 「・・・岸野さん、それって」 動揺し、赤面した。 俺の耳が確かならば、彼はこう言った。 「川瀬さんを、飲み干したいんです」 その言葉通り、 今夜俺はきっと彼に飲み干されて しまうだろう。 目の前にカクテルが、2つ置かれ。 そっとグラスを持ち上げた彼が、 俺のグラスに自分のグラスを小さく当てた。 「乾杯」 そう言ってカクテルを飲む彼の白い喉を 盗み見しながら、 慌ててグラスに口をつけたが、 味が判る余裕なんて残されていなかった。 金曜日が間もなく終わろうとしている時刻、 俺は彼と最後の目的地に向かうタクシーの 中にいた。 彼と沈黙を保ったまま、 タクシーに乗り込んでからも、 俺の心は揺らされ続けていて、 既に我慢の限界を感じていた。 後部座席に深く身を預け、ひとつ息を吐くと。 それまで車窓から見える景色を眺めていた彼が、 こちらを向いた。 「もしかして酔ってしまったんですか?」 「そんなまさか」 はっきりと言いきったつもりだったが、 口から出た言葉の勢いのなさに戸惑った。 「大丈夫ですか?意外と、お酒弱いんですね」 膝の上に置いていた手に、彼の手が重なる。 「あ」 思わず声を上げてしまった俺をよそに、 彼は俺の指を弄び始めた。 「・・・僕がいつになく大胆なのは、 さっきのお酒のせいだけではないと思います」 一旦絡まり、繋がっては離れて、 また絡め取られる指。 その先から発せられる、正体不明の熱。 彼に触れられているという事実が 俺を捉えたまま、1ミリも動けなくなった。 「誘ってきたのは、川瀬さんですからね」 彼の囁くような言葉が、続いていく。 もうどうにでもしてくれ。 タクシーを降りるまでの間、 俺は身体の芯の熱さと戦うこととなった。 下北沢は、数年ぶりだった。 自宅からそんなに離れていないはずなのに、 通勤路線が違うために全く縁がない 街のひとつ。 まさかこんな形で、訪れるとは思わなかった。 コンビニに寄りたいと言う彼に続いて タクシーを降り、 コンビニで飲み物とスナック菓子を買った。 彼と並んで歩くこと3分。 6階建てのマンションの前で、 彼が俺に目配せした。 「ここです」 1人しか通れない、 幅の狭いエントランスを抜け、 ポストの鍵を開け郵便物を取りだす 彼から数枚の広告を渡され、 傍らのゴミ箱に捨てるように言われた。 「川瀬さんのところは、どんな雰囲気ですか」 「俺はただ帰って寝るための家ですから、 立地だけはいいという感じですね」 エレベーターホールで エレベーターが来るのを待ちながら、 また沈黙と向き合った。 今夜は随分、 彼の横顔を見つめている気がする。 10日前は、 存在さえも知らなかったというのに。 いったい誰が仕組んだ罠なのか、 心が彼を求め叫び続けていた。 エレベーターで5階に上がり、 フロアに降り立ってすぐ、 彼が上着のポケットから鍵を取り出した。 緊張しているのか、 ドアの鍵穴に鍵を差し込む彼の指先は、 わずかに震えていた。 このドアの向こう側に行ってしまえば、 きっともう俺は今までの俺ではなくなるだろう。 一瞬だけ目を合わせ、 ドアを開けてくれた彼よりも先に、 足を踏み入れた。 電気ポットで 湯を沸かしている音だけが響いていた。 玄関先で上着を脱いだ彼が、 寝室と思われる部屋に消えた後、 リビングのソファに深く座った俺は、 横のガラスのテーブルに置かれたTVの リモコンを手にしかけて、手を止めた。 彼が、すぐ後ろに立っていた。 「隣、座ってもいいですか」 「あ、はい」 自分の家でもないのに くつろぎかけているのを恥ずかしく 思いながら、彼の座るスペースを作った。 男2人で座るには窮屈すぎるソファ、 彼の膝が容赦なく当たった。 「タクシーの中では」 「はい」 「こんなに、密着しなかったですよね」 「まあ、そうですね」 思うような返事ができずに、 彼からそっと視線を外した。 「川瀬さん」 名前を呼ばれ、 意を決してそちらに顔を向けた俺は、 予想を遥かに超えた鋭い彼の眼差しに 出会って言葉を失った。 そして、彼と視線を絡め合わせるしか 術がなくなった俺に、彼が囁いた。 「いいですか」 何がと訊くまでもなく、 始まってしまうんだと解った。 どうして彼だったんだろうと、 隣で寝息を立てている彼の髪を撫でながら、 思った。 インパクトのある言葉に脅威を感じ、 認められたいと思ったのは 間違いなかったが、 突然何かのスイッチが入り、 女性に対する気持ちとは違う欲望を抱いた。 こんな経験は初めてだというのに、 不思議な事に全く抵抗を感じなかった。 まるでそうなることが当たり前のように、 自然な流れで繋がった。 これから、どうなっていくんだろう。 目覚めた彼が俺に微笑んでくれたら、 またきっと抱いてしまう事だけは判っている。 でも、それだけで終わりたいとは 思わなかった。 そんな思いを、正直に伝えてしまって いいのだろうか。 ベッドインしてしまえば 「完結」していた今までの俺にとって、 その告白は未知の領域。 彼との関係を続けるためには どうしたらいいのか、本気で悩み始めていた。
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