警告に似た声と、元上司の本性。

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警告に似た声と、元上司の本性。

ふとした瞬間に絡みつく視線。微笑み。 紛れもなくそれがすべて彼との間に 起こっていることに、 ときめきを感じずにはいられない。 「彼の言動によって心を揺らされている 俺を見て、彼はいったいどう思っている んだろう」 そんな初恋の頃のような思いを抱き、 常に彼を気にし続ける自分に今、 いちばん驚いている。 「川瀬さん、聞いてくれてます?」 「は、はい」 我に返れば、怪訝そうに俺の顔を覗き込む 彼の顔が目の前にあって、 椅子から滑り落ちそうになってしまった。 「さっきから心ここにあらず、ですねえ」 「すみません・・・コーヒー、おごります」 そう言って、彼の返事を待たずに席を立った。 今日は半日、彼と一緒に 複数のクライアントの取材のために外出し、 遅いランチを済ませ、会社に戻ってから、 11Fの休憩室で原稿の構成をどうするか ミーティングをしていたのだが、 いつの間にか彼と俺以外の姿は消え失せ、 彼の静かでありながら凛とした声だけが 響いていた。 (はあ・・・いたたまれない) あの夜、彼と一線を越えた自分は、 本当にここにいる俺自身なのかと 疑問に思うくらい、 今の自分は情けない奴でしかなく。 硬貨を入れる指先の震えが、 更にそれを増長させていた。 「僕のは、ミルクたっぷりでお願いします」 不意に声をかけられ振り返ると、 俺の背中のすぐそばに彼が立っていて、 思わず自動販売機の取り出し口から 拾い上げた缶を取り落としてしまった。 「川瀬さん、何してるんですか」 屈み込み、俺の視線の真下に後頭部を さらす彼に、反射的に返事をする。 「ご、ごめんなさい」 「本当にどうしちゃったんですか?」 缶を片手に俺の顔のすぐ側で顔を上げた彼に、 微笑まれながらそう言われ、戸惑う。 「何がですか」 「ミーティング、先に進まないんですが」 「すみません」 「ずっと謝ってばかりですしね」 「あ、はい・・・すみません」 最早、どんな表情をしていいのか判らず、 ぎこちなく笑った俺に、彼はこう切り出した。 「仕方ないですね。じゃあ、仕事の話は 一旦止めにして、先週のことを話しますか」 その言葉で、瞬時に胸を鷲掴みにされた。 彼の微笑みが、さっきまでとは違う色合いを 見せ、そっと俺をがんじがらめにしていく。 彼に囚われたまま、視線を外せなくなった 俺の上に、彼の次の言葉が降り注がれた。 「川瀬さんは・・・いつもあんなに、 情熱的なんですか?」 「!」 夢中で彼の唇を貪った夜が、蘇った。 「・・・あ」 吐息混じりの彼の声が、 俺の耳元で渦を描くように響く部屋で、 彼のしなやかに伸びた肢体の ありとあらゆるところに唇をつけ、 彼の全てを味わった。 「もっと、気持ち良くなって」 目を閉じ、軽く額に汗を滲ませる彼に そう囁きかけながら、 自分が考えうる愛情表現を形にし続けた。 行為が終わり、自然にまどろみ、 意識を取り戻し、また絡み合うという 時間を過ごし、カーテン越しに入る陽の光が 朝を迎えた事を知らせてから、 俺たちはようやく本格的な眠りについた。 「あれ」を情熱的と言わずして、 いったい何と言うのだろう。 一部始終を鮮明に思い出し、 密かに焦る俺をよそに、 彼は俺から離れ、席に戻っていた。 「あ」 彼に手招きされているのに気づいて、 慌ててそこへ舞い戻った俺は、 傍から見たら いったいどんな奴に見えるのかなどと 冷静に思える余裕もなく、 おとなしく彼の隣に座った。 「俺」 「はい」 「岸野さんから見て、俺そんなに おかしいですか?-って、やっぱり そうですよね」 そう言ってから苦笑いをし、 握りしめていた手の中の缶に視線を落とした。 「僕は別に、そんなこと」 「だって、さっき『どうしちゃったんですか』 って」 「ああ、それは僕の中の川瀬さん像とは まるでかけ離れた姿だったので、つい」 「俺は、岸野さんから見てどんな奴に 見えてたんですか」 実は、すごく気になっていた。 彼の目に自分がどう映っているのか? ということが。 少なくとも、一線を越えるに値する男で あった事は間違いないと信じられるのだが。 ここがオフィスであることを忘れ、 息を殺して彼の唇から溢れだす 情熱に満ちた言葉を待った。 だから「そうですね・・・僕とは違って、 自信に満ち溢れていて、明るくて。 まさに『リア充』」と、 出会った当初に放たれた言葉だった時の 俺の落胆ぶりは、半端ではなかった。 「あの・・・川瀬さん?何を落ち込んでる んですか」 肩を落とし、うなだれた俺の隣で、 彼は心の底から不思議そうな声を出した。 難攻不落。 滅多に四字熟語など脳裏に登場しないと いうのに、彼の横顔にその言葉が貼りつく こととなった。 「いえ、何でもないです」 言葉と笑顔を取り繕ろうしか、 その場をやり過ごす術が思いつかなかった。 目を閉じて、視界を遮断した。 電車の揺れに身を任せて、 座席に身体を預けると、 ああ1日が終わるんだなと実感する。 外苑前にある会社から渋谷、新宿経由で 自宅のある初台までは、 乗り換えがある分意外と時間がかかる。 一路線につきわずか数分の乗車時間だが、 座れるとなると遠慮せず席を確保するように なったのは、いつからだろう。 入社以来、ずっと気力体力に自信があったが、 仕事終わりの合コンで目を付けた女性と 「そういう仲」になることや、 成功者としてのステータスとして いいマンションに住むことも迷いがなかった 20代と別れを告げてから、 確実に何かが音を立てて崩れた。 単純に、心が叫び始めた。 『お前、本当にこれでいいのかよ』 最初はただ疲れているだけだと、 目をそむけていた。 時にはこれでいいんだよ、 と心の中で言い返してもいた。 しかしその声は鳴りをひそめることなく、 どんどん大きくなっていき。 1ヶ月を過ぎた頃、 とうとう我慢ができなくなって、 自宅のベッドの中でそっと声に出した。 「これでいいのかよ、ってどういう意味だよ」 独り暮らしの部屋、 問いかけたところで返って来るはずがないと 苦笑いしかけた俺の耳元で、声がした。 『知ってるくせに』 予想だにしないことに飛び起き、 恐怖のあまり耳を押さえた。 それ以来、声はしなくなったが 心を独占したまま離れなくなったその言葉は ある日を境に色味を帯びた。 彼という存在を知った、あの日。 青白く繊細な顔立ち、 そのくせ眼力だけは強烈な彼に出会って、 心が囁いていた言葉の意味を知った。 彼とは必ず、何かが始まる。 そんな予感めいた気持ちが形になり、 あっという間に一線を越えた。 俺にとっての彼の存在は、 既になくてはならないものになっている。 だからこそ、失敗は許されない。 一夜を共にして実感したが、 彼は決して全く肌の触れ合いに慣れていない タイプではなく、 そのシチュエーションに身を置く事になれば 素直に反応できる、魅力的な男だ。 仕事ぶりは真面目でストイック、 型破りで突出した感性を持ち、 他を圧倒する実力の持ち主。 最初は攻撃的すぎるくらいの発言が 目立ったが、 それはきっと自己防衛が強いゆえのこと。 今でこそ好意的な態度だが、 近づき方を間違えたらすぐに心を閉ざして しまうだろう。 俺は絶対、彼を手に入れなきゃならない。 あの声の答えは、 確実に彼が持っているのだから。 到着を告げる車内アナウンスが聴こえ、 目を開けた。 慌ただしく降りる準備をする人々の姿を ぼんやり視野に留め席を立ったが、 ホームを歩き始めてからも、 彼への思いに心地よく浸り続けた。 「で?あれから、岸野とどうなったんだ」 喫煙スペースで顔を合わせた元上司は、 俺を見るなり点けたばかりの煙草を 灰皿に捨て、「ちょっと話そう」と 俺を休憩室へと導いた。 彼との予想外の進展にかまけて、 自分のやったことに対してのフォローを していなかったと気づき、 どうやって謝ろうかと悩んでしまったが、 こちらが口を開く前に 核心を突く言葉をぶつけられ、 思わず苦笑いしてしまった。 「何だ、その反応は」 神部さんが眉間にシワを寄せ、 鋭い視線を投げてくる。 「あ、いえ・・・先日は、途中で 帰ってしまって、すみません」 「もう済んだ事だ、それよりもあんなに 急いで会社に帰って、何があったんだと 訊いているんだ」 「はい。僕の机の引き出しの鍵を 貸してくれと彼に言われまして・・・ 大切な資料が入っていたそうで、 あ、もともと彼の資料を置いている席に、 僕が座っているので・・・ それを取り出したいと」 「その後は、どうしたんだ」 「え、まあ・・・フロアで少し話して、 2人で会社を出ました」 「それから?」 「・・・あの、神部さん。 確かに誘っていただいた席を途中で 立ったのは悪かったと思いますが、 どうしてそこまで」 戸惑いを隠すことなく、率直に訊いた。 俺が知っている神部さんの姿は、 最早そこにはなかった。 普段の穏やかでユーモアに溢れ、 頼りがいのある姿など、微塵もなく。 目の前にいるのは、 ただ醜く顔を歪めいらだちを露わにした、 中年男。 こんな表情も持っていたのかと、 驚きと失望が心に広がり始める。 だから神部さんの次の言葉を聞いて、 嫌悪感を抱いてしまったのも 当然のことだった。 「川瀬。俺はお前があれだけ嫌がっていた 岸野と仲良くなるのが、嫌なだけだ」 年長者としての助言でも何でもない、 ただの嫉妬であることを瞬時に感じとった 俺は、ぎこちなく微笑んでこう言った。 「ありがとうございます、神部さん。 あなたのおかげで、誰を大切にして どんな物を守って行くべきなのか、 はっきり見えるようになりました。 今の部署に行って彼と出会えた事は、 俺の収穫です」 頭を下げ、神部さんの反応を待つことなく、 席を立った。 ドアを開き部屋を出て行こうとした瞬間に、 背後で神部さんのつぶやきが聞こえた ような気がした。 神部さんには言葉の通り、 彼と引き合わせてくれた事を感謝しているが、 もし俺が男性を恋愛対象にする嗜好を 持っていたのなら、 こんなに悩む事はないと反論したかった。 『お前、あんな奴が好みだったんだな』 捨て台詞にしては、あまりにも陳腐で短絡的。 まず耳を疑い、 すぐにこれは神部さんの名誉のために 聞かなかったことにしようと、ドアを閉めた。 フロアに戻る途中のエレベーターの中、 ひとりため息をつく。 俺は今まで、 神部さんの何を見てきたのだろう。 入社以来、上司としての裁量、 人として同じ男性として十分過ぎる魅力を 感じてきたが、 もしかしたら俺の人の本質を見る目が 曇っていたのか? それとも、俺自身が 神部さんをそう変えてしまったとか? どちらにしろ、もう気軽に話せる関係に 戻れるとは思えなかった。 彼とはあのミーティング以来、 仕事上の会話しかせずにいた。 俺が何かを悟っていると感じているからか、 それ以上彼からの接触はなかったし、 彼の距離の取り方に感謝していた。 彼の何気ない言動に触れて、 全く心が揺れ動かない訳ではなかったが、 今は無理に動きたくなかった。 それで疎遠になるとは思えなかったし、 曖昧なままただ時間が過ぎて行くとも 思えなかった。 沈痛な面持ちでフロアに戻ると、 ひとり電話をかけていた彼と目が合った。 (他の人は?) 唇の動きだけで彼にそう問いかけると、 彼は微笑んで首を横に振った。 自分の席に腰を落ち着かせ、パソコンを開く。 そしてメールをチェックし、 無駄なものをゴミ箱へと移動させながら、 いつものように手を伸ばせば届く距離にいる 彼の存在を意識しないように 湧き上がる動揺と戦い始める。 「はい・・・はい、わかりました。 川瀬に、伝えておきます。ありがとう ございました」 はっとして顔を上げると、 ちょうど彼が電話を切り、 ひとつ息を吐くところだった。 「川瀬さん。この間、一緒に取材に行った クライアントから、いい原稿に仕上げて くれてありがとうってお礼を言われましたよ。 良かったですね」 「本当ですか?」 初めて手がけた案件の成功。 笑みが漏れた俺に、 彼も微笑みながら言葉を続けた。 「これは、ぜひお祝いをしなくちゃ。 この後、どうですか?」 「は、はい」 彼のあまりにも自然な誘い方に 驚くあまり声が裏返ってしまい、 慌てて口を押さえた。 「じゃあ、定時までに仕事をきっちり 片付けましょう」 「って、何でそんなに笑ってるんですか」 言いながら、 肩を震わせ机につっぷした彼の肩を 軽く小突いた。 「だって」 ふふふと唇だけで笑いながら、 彼が腕の間から顔を見せた。 言葉に詰まりぎこちなく微笑み返すと、 彼は顔を上げて首を振った。 「ありがとうございます、川瀬さん」 「え?」 その言葉の意味を捉えられなくて 訊き返したが、真顔になった彼はそのまま 視線をパソコンに向け、 原稿の続きに取り掛かり始めている。 近づいたかと思った彼との距離が、 また遠ざかったと感じた。 今度は表情に出さないように努めて 受け止めたつもりだったが、 大丈夫だっただろうか。 とりあえず定時になれば また彼と話せるんだからと、 気を取り直して彼と同じように 仕事の意識に戻れたのは、 それから少し経ってからのことだった。
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