2話:世界

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2話:世界

時は西暦1943年1月   前回、岡本晃司と園田一花が元の世界に転移した時より、   半年程が過ぎていた。   この時代の世界の情勢であるが、世界は世界大戦が縮小し、事実上   アメリカと日本は中立となり、ヨーロッパでは、イギリスは富国強兵に   つとめて、フランス、オランダ等、ヨーロッパ諸国は、ドイツに占領   され、その支配下となっていた。   事実上と言っても、日本はそうであったが、アメリカの場合は形式上とも   中立の立場をとっていたのであった。   ナチスのアドルフ・ヒトラーの、政戦略による手腕は、相当のもので   あり、これに匹敵する指導者や勢力は、ヨーロッパには無かった。   ヒトラーはヨーロッパの半分以上を手中に収め、その猛威を振るい、   野心をあらわにして、攻撃の手を休めなかった。   これでもかと言わんばかりに、その野心を静めずに、どんどん   ヨーロッパの各国に攻撃を仕掛けて行ったのであった。   ヨーロッパ各地を併合し、その地域に敵のいなくなった、ナチス総帥   ヒトラーはその内心、世界征服の野心まで、持ち合わせ始めていた   のであった。   ドイツは当初の味方、今の最大の敵、ソビエト連邦を攻略しようと攻勢に   出ていた。   しかし、ソ連の首都モスクワまでは、行路上難所が多く、特に夏以外は   寒波や雪に見舞われ、なかなか侵攻できずに、手をこまねいていたので   あった。   ソ連はなにかと、攻勢に長けていたドイツにたいして、その地の理と   季節による利点を生かし、徹底して防戦の構えを敷いていた。   事実上日本による脅威は、少なくなったため、東へ赴いていた兵や   軍事物資は、西のドイツとの戦線に投入し、大国であることを生かし、   豊富な国力を、夏を中心にそれらの、鉄道による移動を頻繁に   行っていた。   これらもあり、ドイツは、ソ連攻略にかなり困難な状況にあったが、   実質富国強兵策をとっていたイギリスによる侵攻が無く、   この点は、兵や軍事物資を割く必要はなかった。   イギリスはソ連と提携してドイツを実際に、挟撃していればよかったが、   この時期はやはり富国強兵に努める必要があり、これが終わると、   一気にソ連と共同で、ドイツを攻める、画策をしていたのであった。   そしてヨーロッパの大半を支配したドイツは、イタリアと共に形式上、   世界は主に、ソ連、イギリス、オーストラリア、カナダ等の   連合国対ドイツ、イタリア枢軸国の構図となっていたが、事実上は、   ソ連対ドイツが主になっていて、独ソ戦争状態に戻っていた。   一方アジアでは、中華民国に追放された近衛文麿は、その拘束をのがれ、   中国共産党の毛沢東と、結託したのであった。   これにより、蒋介石の武力剿共(武力により共産党を討伐すること)の   決意は、かなり強固なものとなった。   そして、ついに中国国内は、本格的な国共内戦が勃発した。   アメリカは裏から、蒋介石及び中国国民党への援助を行っていたが、   これも消極的となったのであった。   この背景には、念のために、アメリカ政府内に入り込んだソ連や   中国共産党側の、スパイの活動の影響が、あったのである。   これと反対に、これも裏からソ連は、中国共産党への支援を活発化   させていったため、次第に国民党は劣勢に追い込まれていくことに   なった。   台北市で行われた抗議デモに対して憲兵隊が発砲し、抗争はたちまち   台湾全土に広がることとなった。   本省人は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大陸から   援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧するという事件が起きた。   その後蒋介石は台湾全土に戒厳令を敷き、以降白色テロによる支配を   行うこととなる。   そして国民党政府は、中国共産党に敗北し、蒋介石は首都・南京を   脱出し、重慶などを経て、成都から、息子の蒋経国とともに飛び立ち、   台湾島の台北に遷都することになった。   結果的に中国共産党の毛沢東は、国民党の蒋介石を台湾へ追いやった   形になった。   近衛文麿は毛沢東をたて、中華人民共和国を設立し、毛沢東は   中華人民共和国の、国家主席となった。   中華人民共和国の実権を、ある程度握っていた、近衛文麿は日本国に   復讐し、またその地位を奪還するために、日本国に宣戦布告したので   あった。   かねてより、ドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニと繋がりの   あった近衛文麿は、毛沢東のソ連に対する恩を無視させて、   中華人民共和国を、枢軸国に参入させ、資源を輸出によって供給する   かわりに、それぞれの軍事力の導入により、協力を得たのであった。   この時期アメリカは、名目上中立を保つ必要があり、物資の輸出入は   行っていたものの、表立って、どこの国にも軍事的、経済的、時限的に   供給、介入出来なかった。   それは日本に対しても、同じであった。   日本は吉田茂の元中国の動きに応じて、国家防衛の為に連合国に   加入せざるを得なくなり、連合国の一国となった。   かくして世界は少なくとも形式上、ドイツ、イタリア、中国の枢軸国対、   ソ連、イギリス、日本、オーストラリア、カナダ等の   連合国の図式になって行ったのであった。
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