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部屋から庭に出るまで、一郎さんは一言も口をきかなかった。
「疲れましたね」
池の噴水を眺めながら、ようやく口を開いた。本当に疲れたのだろう、横顔が挨拶の時よりやつれている。
「そうですね」
私は多少なり笑顔も作ったし、話にも相槌を打っていたが、一郎さんはトウモロコシを食べるチャボのように黙々と料理を口にするだけで、声も発しなかった。たまに目が合えば逸らされたし——
「やめても、いいんですよ」
「……え」
「結婚。僕のようなつまらない男と結婚しても貴女は不幸になるだけだ」
一郎さんが “不幸” と口にした時、ビュゥッと冷たい風が吹いて、池の水面が私の心臓のように頼りなく脈打った。
——不幸になる前に、今の私はけして幸福ではない。
それに、この縁談がなくなれば、私は、きっと、一生社会には出られない。
お互いに気持ちが無くても、形だけでも夫婦にならなければ。
私は、無理矢理、口角を上げて答えた。
「私のほうがつまらない人間ですよ」
ただ、華族の娘というだけで、何の価値もない。
勉学は好きだったが、結婚のために辞めざるを得なかったから深い知識もないし、ましてや一郎さんのような美貌があるわけでもない。
何より、年上の離婚経験者だ。
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