蝶ヶ崎嶺羅という少女 序章

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蝶ヶ崎嶺羅という少女 序章

「もういいんだ。どうせ僕は兄や弟のように剣の才能もなければ頭も悪い。誰からも認めて貰えない、誰からも愛して貰えない…。辛いんだ、期待して、裏切られて、その度に胸が張り裂けそうに痛むんだっ…」  そう泣き喚くこの目の前の少年を、私は冷めた目で見つめた。そんな私の視線に気付いた彼は、傷付いた顔をして更に大きな声で泣いた。  うんざりだ。私は片手を腰に当て大きく息を吐く。 「お黙りなさい」  大きな声など出さなくていい。ただひと言、威圧感をもってはっきりした口調で告げると、怯えた表情の少年はピタリと泣くことをやめた。いや、真一文字に結ばれた口端から「ふぐぅっ…」と動物の鳴き声のような呻き声が聞こえる。彼は懸命に声を押し殺しているようだ。——よろしい。その従順な姿勢には僅かにだが好感が持てる。 「貴方、ご自身のことを冷静かつ的確に分析できているじゃない。褒めてあげます」  成長するためにはまず、己の欠点と向き合うことから始めなくてはならない。自身の内に秘める劣等感を打ち破ってこそ、人は輝けるのだ。 「…であれば、話は早いわ。兄より更に剣の鍛錬を積み、弟より更に本を読めばいい。何を嘆くことがあると言うの?」  私は淡々とそう言って最後に小首を傾げて見せれば、目の前の少年は赤かった顔をさらに赤く染めて大声で叫ぶのだ。 「僕は今までも最大限に努力したっ! それでも兄弟に追い付くことさえ出来ない! 僕は無能だ! 僕はこの公爵家の恥晒しだ! 皆そう言ってる! 優秀な両親からなんであんな出来損ないが生まれたんだって! この前のお茶会で王子に言われた…『お前はきっと拾われた子だろう』って! なんで! なんで! 僕は一生懸命に頑張っているのに! 誰も見てくれない! 理解してくれない! 優しくしてくれない! 兄弟には馬鹿にされ、両親には哀れみの目を向けられる! これ以上僕はどうすればいいんだ! もう嫌だ! やだ! やめたい! こんな人生なんてうんざりだぁ!」  息継ぎもなしに叫ぶものだから、少年は両肩を大きく上下させて荒々しく呼吸していた。…彼の言い分はこれで終わりかしら。 「本日はひとつ、貴方に学ぶべきことを教えてあげます。世の中は不公平よ、不平等よ、無情なほどにね。生まれたその日から、人は自身に与えられたカードで人生を切り拓いていかなければならないの。いつだって時代を作ってきたのは勝者だわ、勝者の声に人々は耳を傾ける…」  ここで言葉を切り、私は蔑むような目で少年を見た。 「敗者の…いいえ、負け犬の戯言など誰も耳に入れはしないの」  少年はビクリと大きく肩を揺らし、そして悲壮感漂う表情で地面に目線を下げた。…遂には、自分より下の階級…侯爵令嬢である私の顔も見れなくなったようね。 「顔を上げなさい。この私、蝶ヶ崎 嶺羅の婚約者である限り、そのような情け無い姿を見せることを、今後は許さないわよ」  威風堂々とそう告げると、少年はすぐに顔をあげた。私の有難い言葉に心を打たれてかと思ったが、少年の表情は口を半開きに間抜け面そのものであり、あまりのみっともなさに私は思わず眉を顰めた。 「……チョウガサキ レイラ…?」  発音がし難いせいか、辿々しく少年が言う。 「私の名よ」 「えぇっ!? だって君は、レイラ・シュテルンベルクだよね? チョウガサキって異国の名前? 何かの本で読んだの? それか、もうひとりの自分ごっこ遊びをしてるの? だからそんな風に女王様の真似をしていたの? さっきまではすごく怖い子だと思ってたけど…そっか、君はまだ七歳の女の子だものね」 「………」  私が黙ると、先程まで涙で顔を汚していたはずの少年は調子付いて更に何かを言い募ろうとする様子を見せたので、「とにかく」と短く放って彼の意識を再びこちらへと向けさせた。 「これからは、私が貴方のカードを…私に相応しい立派な婚約者に育ててあげます。喜びなさ……なんなの、その微笑ましそうな目は。不快よ、やめなさい」  少年は完全に私を小さな女の子扱いする生温かな目で私に微笑んでいる。散々私に泣かされたというのに、この少年はそれをもう忘れてしまったというのだろうか。だとすれば、なんて残念な脳味噌なの。鶏でさえも、三歩歩かないと忘れないのよ、彼は一歩も歩いていないというのに。 「まずは、その負け犬根性を叩き直してあげるわ」  少年は微笑んだまま。私の口端は不快さからピクピクと痙攣している。 「…そうね、犬ですらないわね…」  小さな子どもの遊びに付き合ってあげている雰囲気を醸し出す彼に、私は遂にキレた。 「まずはこの駄肉にまみれた腹! どうにかなさい! でないとこのままでは…!」  私はボタンがはち切れんばかりに窮屈そうな彼の腹を、ブラウス越しに思いっきりつまんでやった。が、ふるふると肉が震えつまむことが出来なかったので、両手で鷲掴みにした。 「ザカライア・ヴァンヘルシュタイン、このままでは貴方は、出来損ないのただの豚よ!」  目の前の少年、ザカライアはすっかり涙の乾いた目を大きく見開く。その目には少し、恐怖の色が滲んでいた。  ——こうして、ヴァンヘルシュタイン公爵家次男『醜いアヒルの公子様』ザカライアとシュテルンベルク侯爵家長女『転生令嬢』レイラの、婚約者としての初の顔合わせは無事に終わった。
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