壱 新生活と新しい出会いと

5/7

311人が本棚に入れています
本棚に追加
/89ページ
  ✳︎  ザカライアたちと別れて自身の教室に入ると、多くの視線が私に向けられた。興味深そうな、不安げな、不満そうな、様々な視線が注がれる中、私は微笑みを浮かべて「おはよう御座います」と、これから数年間ともに学び合う級友たちへ挨拶をした。 「あっ…おはよう御座います…」 「おはよう御座います…」  当然無視する人もいたが、戸惑いながらも咄嗟に挨拶を返してくれた人たちもいた。 「シュテルンベルク侯爵令嬢」  私への戸惑いと好奇心が教室に満ちていく中、一人の男子生徒がクラス代表、といった様子で声をかけてきた。 「僕は、バルファルト・ヘルマンと言います。こうしてお目に掛かるのは初めてですね」  真面目そうな第一印象の彼が、好意的な笑みを浮かべて握手を求めてきた。王宮で文官として働いているヘルマン伯爵の嫡男で、王都貴族の…と、貴族図鑑で学んだ情報を思い出しながら、私は差し出されたバルファルトの手を見下ろした。 「はじめまして、レイラ・シュテルンベルクと申します。今後ともどうぞよろしくお願い致します」  私は握手の手を握らず、その場で丁寧にカーテシーをして頭を下げた。婚約者のいる身で、他の異性と素肌を触れ合わせることは、貴族の常識では非常にはしたない行いになる。バルファルトの目の奥が妖しく輝いた。…この方、今、私を試したのね。  目の前の爽やかな笑みを浮かべる少年に、王都貴族とは本当に食えない方々ばかりね、と心の中で息を吐いた。 「生徒の大半は、あのザカライア・ヴァンヘルシュタイン公子の婚約者である貴女に興味が湧いているようですが、僕は貴女自身に興味があります」 「あら、私にですか? それは光栄ですね」 「はい、とても。とても貴女の事が気になります」  言葉だけを捉えると、熱烈なアプローチのように思えるが、彼の話す様子を見ればそれが単なる好奇心であることが伺える。しかし、初めて顔を合わせる相手の、何がそんなに気になると言うのだ。私は少し首を傾げてみせた。それを見たバルファルトは好意的な笑顔から、少しだけ表情を崩して素直な少年の笑顔を覗かせる。そこで、初めて相対した時の笑顔は、彼の処世術の笑顔なのだと知った。 「突然、このような事を言われても、戸惑いますよね」  戸惑ってはいないが、疑問ではある。しかし、特に何も答えずに待つと「貴女が成した領地改革を知ってから、ずっとお会いしてみたいと思っていたのです」と、理由を話してくれた。…はて? 領地改革? 彼の言う内容に、全く身に覚えがなかった。  バルファルトの続く言葉に耳を傾けていると、彼の言う領地改革とは、シュテルンベルク侯爵領内の平民が通う学校の授業内容のレベルを引き上げたことで、より教養高い平民が育ち、その他領地と比べて優秀な領民によって侯爵領は潤い、その恩恵を受けて財を成した平民が商いの手を広げることで、結果、国全体の経済を回す一翼を担っているということであった。  真実はただ、私の学のためにマシューやゲイルに教えることで自身の理解度を確認していただけだ。その事がキッカケとなり、教えを乞う領民たちには喜んで私の持ちうる限りの知識を教えてあげた。その時の子供が大人となり、次代の子供たちに教えた。そうして、侯爵領の領民たちは互いを高め合っていっただけのこと。  耳にまだ新しい経済ニュースとして、シュテルンベルク侯爵領でホテルを経営していた支配人が王都へ支店ホテルを開業した事があった。  支配人の息子が、私から学んだ礼儀作法とマナーを従業員に伝え、それを研鑽し身に付けたことで、王都で開業したホテルは国を代表する高級ホテルとして認知されたのだ。国内の貴族は勿論、他国の貴族が利用するとしても他の貴族専用ホテルと遜色ない、むしろそれ以上の品質の高さから今では王都になくてはならないホテルだと言われている。  父であるシュテルンベルク侯爵の経営する商業ギルドに所属している為、侯爵の後ろ盾はもちろんあるが、平民が営むホテルの中から初めて、王宮より貴族御用達ホテルとして認可されたことは世間を騒がせることとなった。私は、開業した年に、支店ホテルの支配人となった息子から、永久無料宿泊券なるものを贈られたな、と、思い出して少し笑った。
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!

311人が本棚に入れています
本棚に追加