間話 悪役令嬢の憂鬱

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『…どうして、親しくもない私にそのようなお言葉をかけて下さるのですか…?』  数年前の最後にお会いした時は、王子や私を避けている様子すら見せていたのに。 『もう、見て見ぬ振りをする格好悪い男にはなりたくないんだ。…ま、理由なんて気にせずにさ、辛い時は大人しく俺を頼っておけよ』  この時、確かに私は救われたのだ。泣いてもいい場所があると思えるだけで、こんなに気持ちが楽になるとは思わなかった。だから私はこれからも、耐えていけると思った。  あの人の眩しい笑顔と、今ではお守りのように常に持ち歩いている無機質な紺色のハンカチーフが、私の心の支えとなっていたのだ。  名門大貴族モーガン公爵家の長女たる者、他人に弱味を見せることに抵抗のある私は、あれから一度もあの場所には行っていないけれど…この紺色のハンカチーフを一年経つ今でも返せていないことは、よろしくないわよね。  ちゃっかり、『E・V』の文字を彼の髪と瞳の色である銀と青紫の刺繍糸で、いつもより丁寧に刺してしまったこのハンカチーフを…どのような顔で返せばいいのかも分からないし…。 「——皆さん、分かっていらっしゃらないのね。私は断然、エイデン様派ですわ!」  そんな言葉に、現実に引き戻された私はハッとする。 「あの鍛えられた厚い胸元、精悍な顔立ち…男らしい魅力に私はいつも胸が苦しくなるほどです…!」  その令嬢は芝居がかった身振りで、存分にエイデン公子の魅力、主に肉体美についてを饒舌に語るのだが、何故か私の顔が熱くなっていく。  きっと、令嬢の言葉に釣られて、エイデン公子の半裸姿で逞しい肢体を見せつけるようなポージング姿を妄想してしまったからだ。…も、モーガン公爵令嬢として、このような妄想をしたなどと口が裂けても言えないわ…!  周りの令嬢に悟られないよう、王妃教育の賜物である優雅な笑みを必死に顔に浮かべて、その場をやり過ごした。  それから、ヴァンヘルシュタインの公子たちを花で喩えるならという話題に移り、エイデン公子は白ダリア、ザカライア公子は白ユリ、リュカ公子は白薔薇だろうと盛り上がった。 「ところで、オリヴィア様のお耳に入れて欲しいお話しがございます」  時の人、ヴァンヘルシュタイン三兄弟について楽しく盛り上がっている中、一人の令嬢が神妙な面持ちで話を切り出した。  彼女は…王家派の代表格貴族のご令嬢だった。 「…いかがなさいましたの?」  王子の婚約者として、彼女を…ユリアン伯爵令嬢を無下には扱えない。私は優しげに微笑むと、彼女はピクリとも動かない無表情で言葉を続けた。 「今朝、レオンハーツ王子殿下がレイラ侯爵令嬢をお誘いしたお話しをご存知ですか?」 「えぇ…けれど、レイラ侯爵令嬢はその場でレオンハーツ様のお誘いを辞退したと聞いたわ」  ユリアン嬢は、伯爵家の家長の方針からかレオンハーツ王子に他の女性の影があることを良しとしない。未来の王妃はモーガン公爵家令嬢である私なのだと盲信している節もあり、少しだけ彼女が苦手だった。 「はい。それでは、別の令嬢と過ごされたというお話しは?」  またか。ユリアン嬢の言葉を聞いた瞬間、レオンハーツ王子に対しての呆れとともにそう思った。そんな私を観察するようにユリアン嬢がジッと見つめてくるので、私は表情に出ないよう奥歯を噛み締めて咄嗟に悲しそうな表情を作った。 「そんな…まさか、レオンハーツ様が…」  健気に婚約者を信じる振りをする私に、周りの令嬢たちから同情の視線が向けられる。 「お相手は、新入生のキャロライン伯爵令嬢です」  キャロライン伯爵令嬢…? 確か、地方の伯爵領主のご令嬢だが、王都にいる親戚に長いこと厄介になっていると言う…何度か王妃様主催のお茶会で顔を見たことがある。  考えている間に、ユリアン嬢は淡々とした口調で続ける。 「ご心配なさらないで下さい、オリヴィア様。私が付いておりますので」  嫌な予感がする。この、私を盲信する濁った瞳に危機感を感じた。これまでのレオンハーツ王子の『恋人』たちが何らかの理由で学園を去っていった原因が、このユリアン嬢にあることを、私は知っている。 「…ありがとう、ユリアン伯爵令嬢」  私は微笑んだ。普段は無表情気味のユリアン嬢がほんのりと頬を赤らめる。 「私が、キャロライン伯爵令嬢とお話をしてみます」  私が、を少しだけ強調した。未来の王妃として、彼女たちを正しい道へ導いていくことも私の役目だ。  ——分かってる、それが私の役目。だけど時々、考えてしまう。  まるでダリアが満開に咲いたような、あの笑顔で私に笑いかけてくれたら、なんて。 『オリヴィア嬢』  白銀髪が風に揺れて、あの日私だけを見つめた青紫の瞳が、この先も私の姿を——  これ以上、考えることは辞めた。虚しいから。 「はあ…」  誰にも聞こえないように、小さな憂鬱の息を吐いて、私は晴れ渡る空を見上げた。
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