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「オリヴィア」
その時、今まで聞いたこともない父の優しい声とともに、大きな腕に抱きしめられた。父が良く吸う葉巻きの独特な匂いが鼻を掠める。父の香りを、こんなに近くで嗅いだのは初めてだった。
「お前は、どんなお前でも、私達にとってこの世で一番の愛する娘なんだ」
普段は厳しい父の瞳が、情けなく揺れている。
「…私は…お前を失いそうになってはじめて…お前をモーガン公爵家の娘としてではなく、自分の娘として愛していたのだと気付く、愚かな父親なのだ」
思いがけない父の言葉に息が止まった。
「お前の母もオリヴィアを愛している。あいつはお前に『王妃』を望んでいるのではない。『王妃』になればお前が幸せになれると信じていただけなんだ」
頭が、理解が追いつかないのに、何故か涙が溢れ落ちた。
「苦しめて済まないな、オリヴィア。私たちはどうやら、お前の愛し方を間違えていたようだ」
父の腕に力が入る。その腕は小刻みに震えていた。
「……生きて、帰ってきてくれてっ…あり、がとう…っ」
父も、涙を流す普通の人間なんだな、と、そんな当たり前のことを思った。そして、よく知るシガーの匂いに包まれて、私は初めて、父の腕の中で小さな赤子のように声をあげて泣いた。
✳︎
「え、エイデン様…いつまでここに…」
落ち着いてくると、恥ずかしさが込み上げてくる。父娘で抱き合い大泣きする姿を、よりにもよってエイデン公子に見られるなんて。父も、いつも通りの仏頂面ではあるが、どこか恥ずかしそうにしていた。
エイデン公子は「ん?」と、なんでもないような顔をして笑うと、言った。
「だって…泣いてる間は一緒にいてやるって、俺、前に言っただろ?」
——ずるいわ、エイデン様。そんな無邪気な笑顔で私の胸を締めつけるなんて。
「…コホン、では私は、隣の病室で仮眠を取っている妻にオリヴィアが目覚めたことを伝えてくるから…エイデンくん、その間オリヴィアを頼めるかね?」
え、エイデン『くん』?
父は何故かそそくさと、部屋から出て行った。
父の後ろ姿を見送ってから、先程まで父が腰掛けていた椅子に、今度はエイデン公子が座った。
「全くよぉ、オリヴィア嬢…」
何を言われるのか。エイデン公子に突き放されるような言葉を言われてしまうと、レオンハーツ王子の比ではないほどに傷付く自信がある。
怯えながら彼を見ると、エイデン公子は拗ねたような、予想外な顔をしていた。
「自分に価値がないなんて言うなよ。あの日から一度も顔見せに来ねえし、少し寂しく思うこともあったけど、俺は、一人で立とうとする貴女の強さに惹かれたんだぜ?」
そう言って、恥ずかしそうに頬を染めてニカッと笑うエイデン公子。
私は、目を大きく開いて、何故かあの日のことを思い出していた。
陽光に透ける白銀髪が——。
穏やかな暖かい風が頬を撫でて——。
貴方が、笑うと——。
「——笑うと、どこか幼く見える貴方の笑顔にずっと支えられてきました」
私は今、ちゃんと笑えているのだろうか。
「どうせ泣くなら、俺のためだけに泣いて欲しいと、あの日からずっと思ってたよ」
そう言って、手を伸ばして、私の涙を指で拭うエイデン公子の笑顔は、あの日のままだった。
「オリヴィア嬢は、罪を犯した。子が産めなくなった体は、その罪の証だ」
エイデン公子の声は固い。
「貴女が自殺なんていう馬鹿な真似をしたことに対しての、一生背負っていく罪」
私は苦しくなって、顔を俯かせようとすると、エイデン公子が両手で私の頬を挟み、阻止してきた。それだけでなく、彼が私の顔を覗き込んでくるので、逃げられないし、私たちは見つめ合う形となった。
「だが、貴女の罪を、俺にも背負わせてくれ」
「…え?」
どういう意味か分からず、私は呆気に取られた顔でエイデン公子を見た。
「俺と、結婚してくれ」
婚約者に捨てられて、自殺を図って、想い人に求婚された。私の頭の整理がついてくると、ぼっと火が出るほどに顔が熱くなった。——嬉しい。私の心が歓喜していることが分かる。
「くくっ、顔が真っ赤だな」
それは、エイデン公子だって…同じではないか。
しかし、喜んでばかりいられない。だって私は、石女なのだ。エイデン公子には、相応しくない。
「…子の産めない私など娶っても、私は公爵家に何のお役にも立てません…!」
私がそう言うと、エイデン公子はぐっと顔を近付けてきた。逃がさない、と言われているみたいで、とても戸惑う。
「公爵家の跡継ぎは、何も俺でなくてもいい。ザックは…婿入りするから難しいが、ルカがいる。分家として子爵位を賜われるから、公爵令嬢のオリヴィア嬢には酷な話かもしれないが…」
子爵位。私のせいで、この方の輝かしい未来を奪ってしまう…そんなこと、私が耐えられない。私はどうなってもいいから、エイデン様を道連れにしてはいけない!
——断ろう。私がそう決心した時だった。
「これまでのしがらみは捨てて、二人で自由気ままに幸せに生きて行こう」
エイデン公子は幸せそうに笑った。彼の言うその未来は、想像しただけで胸が締め付けられるほどに苦しい、輝いた未来だった。
好きな人の側で屈託ない笑顔を浮かべる想像上の自分に、激しい嫉妬心を感じるほどに。
私、は…この人を拒めるのかしら。私は、もう、正直に生きてもいいのかしら…?
「君の犯した大きな罪は、これからの幸せな未来を贖罪として必ず償うんだ」
エイデン公子の手に力が入る。
「俺との未来を選んでくれオリヴィア嬢、貴女のことが好きだ」
「…私も、ずっと貴方をお慕いしておりました」
私たちは静かに口付けを交わして、そして、心からの笑顔で笑い合った。
お父様、お母様。私は、貴方達の娘オリヴィアは、今度こそ私の人生を生きて、この方と共に罪を償って参ります。
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