弍 転生しました

5/7
前へ
/89ページ
次へ
 この男、手をあげるつもりなの!? あまりの短絡さに呆れを通り越して驚いてしまう。いや、そんなことよりも、叩かれるっ——。  ぱちん、と乾いた音がして、「ぷぎっ」という鳴き声が聞こえた。  いつまでもやってこない痛みに、私はおそるおそる目を開くと、腕を振り下ろした姿のサイモンと、そんな彼と立ちすくむ私の間に尻もちつくように座り込んでいた、お肉の塊のような少年がいた。その少年が私の身代わりに叩かれたのだと、すぐに把握した。  私は丸い背中を見つめ、目を大きく開く。彼は、『ワタプリ』で幾度となく見てきた可哀想な捨て駒キャラ、ヴァンヘルシュタイン三兄弟の次男の姿をそのまま小さくした姿だったからだ。  自身が叩いた相手が次男だと気付いたサイモンも、憎々しげな表情で舌打ちしている。公爵家の威光を笠に着ているくせに、次男に対しては侮蔑な視線を向けるらしい。 「…さ、サイモン…こちらのご令嬢は、ヴ、ヴァンヘルシュタイン公爵家が招待したお客様だよ…!」  怯えた様子を見せながらも、辿々しく次男が言うとサイモンは卑下た笑みを見せて、次男を笑った。 「ぷっ、ぷくくっ、今の何ですか、ザカライア様! 『ぷぎっ』って、叩かれて『ぷぎっ』と鳴く貴族なんていませんよ!」  サイモンが面白おかしく言うと、先程まで怯えた目でこちらを注視していた子どもの何人かが、思わず、といった風に噴き出してクスクスと笑う。  次男であるザカライアは羞恥心から顔を真っ赤に染めて俯いた。ヴァンヘルシュタイン公爵家独特の、白にも近い銀髪が浮いてザカライアの赤く染まった太い首の付け根を露わにしていた。  初めて王都で主催された茶会に参加したが…なんと低俗で、愚かで、下品で、非常に時間を無駄にしてしまった、というのが私の抱いた感想だった。 「レイちゃん!」  悲鳴のような声で呼ばれたのでそちらに目をやると、真っ青な顔をした母と父がこちらに駆け寄ってきて、強く抱き締められた。 「レイ! 何があったんだ!?」  私の姿の有り様を認めた父の顔が赤くなっている。どうにか怒りを抑え込もうと必死な表情で、それでも普段見せない鋭利な輝きを秘めたエメラルドで私を見つめてきた。  母は涙を零しながらハンカチで私の濡れた髪を拭っていた。 「あなた! レイちゃんの首が赤くなってる! 熱い紅茶をかけられて赤くなっているのよ…ひどいわ! いくら子どもがしたことだからって、こんなこと、決して許されない…!」  母の言葉で、私は初めて首に火傷を負っていたのだと知った。自分では冷静になれていると思っていたが、ひりつく痛みに気付かないほど、頭に血が昇っていたようだ。けれど両親の腕に抱かれたことにより、私は本当に冷静になれたように思う。チラリとサイモンに目を向けた。  彼は私の両親の反応を見て、やっと自分の犯した事の重大さを自覚してきたようで、不安そうな表情を浮かべている。…この糞餓鬼が。 「——お父様、お母様、ご心配をおかけして申し訳ありません。この紅茶は獣のしたことです。どうやら、ヴァンヘルシュタイン公爵家主催の茶会に獣が迷い込んでしまっていたみたいです。知恵なき獣のしたことです、怒ったところで仕方ありませんので、どうかお怒りを鎮めてください」  私の声は、野太くも大きくもないがよく通る声だ。周りは一瞬ポカンとした表情を浮かべて、サイモンも類を見ず、しかし他よりもいち早く自身が『獣』と言われたことに気付き再び怒りに目の奥を燃やしていた。  そこに、ヴァンヘルシュタイン公爵夫妻とルフルス伯爵の三人が駆け付けてきた。サイモンは味方を得たと強気な表情で私を見てくる。  青褪めた表情の公爵夫人と、冷静を装っているが頬に一筋の冷や汗を流す公爵、そしてこちらに敵意の目を向けてくるルフルス伯爵。父は三人に向けて「我々シュテルンベルク侯爵家はこれにて失礼する」と端的に伝えた。  父の怒りの視線を受けて、公爵も返す言葉が出てこないようだ。ここを立ち去る前に、私は未だ座り込んだままのザカライアに近付き手を差し出した。ザカライアは驚いたようにそのつぶらな紫の瞳を丸くして、遠慮がちに私の手を握る。予想以上に重かったが…私はなんとか力一杯に引っ張りあげて彼を立たせた。 「庇って頂きありがとうございます。主催者である公爵家で唯一、貴方だけが私を助けて下さいました」  私は知っている。サイモンとの一悶着中に周りにいたギャラリーの中にヴァンヘルシュタイン三兄弟の長男と三男の顔があったことを。関わり合いになりたくないといった表情で、騒ぎを黙認し傍観していたことを。 「ザカライア公子のおかげで、私は獣からぶたれなくて済みました。その代わりに貴方が傷付くことになり、申し訳ございません」 「いっ、いいんだっ、君は茶会のお客様で、女の子だからっ…鈍臭い僕でも君の身代わりになれて良かった…」  ザカライアは慣れていない様子で慌てて答えると、父がザカライアのふくよかな肩に手を置き「君のおかけで娘は恥をかかず令嬢としての矜持が守られた。父親として礼を言う、ありがとう」と言った。  貴族令嬢の貴族社会における立場でいうと噂というものは致命的な傷を残すことがある。もし、今回、私がサイモンに叩かれていたら、私の今後には『令息に茶会で打たれた令嬢』というレッテルが纏わり付き、そのレッテルは私を傷物なのだと示すことになる。結婚を控える令嬢にとって、それはあまりにも致命的な痛手だ。  私たち家族はザカライアに礼を言ってから、その場を立ち去ろうと公爵たちに背を向ける。すると、ルフルス伯爵が独り言のように言った。 「——商人崩れの、名ばかりの貴族が」
/89ページ

最初のコメントを投稿しよう!

311人が本棚に入れています
本棚に追加