ななよりもはやく

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
五月八日 月曜日 天気・曇り時々雨 体調・最悪  なずなが地元に帰って一日目。  ゴールデンウイークが終わり、今日は久々の出勤日だった。  朝日が昇っただけで、すべてがひっくり返ったみたいに感じられた。だって昨日まで居たなずなはいなくて、昨日までなかった仕事はあったんだから。  ゴールデンウイーク開けからは、少しずつ営業に向けた準備を始める、と課長が言っていた通り、今日は午後から営業課の一原先輩について行った。重たい灰色の雲が空を覆う中、さび付いた自転車に乗って。  お客さんはお年寄りの方が多くて、皆さんとても優しく接してくださった。 でも、途中で突然の雨に見舞われて、せっかく少し浮き上がって来た気持ちは一気に急降下していった。  もっと嫌だったのは、カフェでとった昼食の間、一原先輩の身にならない話を聞かされたことだ。内勤は楽で良いだとか、事務の伝達ミスのせいでお客の前で恥をかいただとか、俺さえ見習っておけば横井も失敗しないだとか。聞いているだけで頭が痛くなった。  今日はただでさえ憂うつなのに、憂うつなことしか起こらなくて、たぶん厄日だったんだと思う。  次に麦と会うのはお正月休みだから、七か月後だね、となずなは言った。  七カ月も会えずに過ごせるだろうか。今はまったく自信が無い。 五月九日 火曜日 天気・雨 体調・頭痛  なずなが地元に帰って二日目。  今日は滝の中で溺れる夢を見て、うなされながら起きた。  明け方から、窓にバチバチぶつかる勢いで凄まじい雨が降っていたせいだ。  それにしても溺れる夢だなんて、相当疲れているんだろうか。  雨が降ると、くせ毛がひどくなるから一層憂うつな気持ちになる。朝、眠たい目をこすりながら一生懸命髪をセットしても、職場の最寄り駅に着く頃には、セットの後は跡形もなく消えてしまうのだから。  今もドライヤーで乾かした髪はすでにピョンピョン跳ねている。  でも雨だったおかげで、今日は一日いつも通り後方事務をして過ごせた。 自分にはしばらく縁のない高額の定期預金の伝票を打ったり、ATMに来たけれど操作のわからないお客さんのフォローをしたり。少し忙しい日だったし、事務課のお局課長の機嫌が悪くて当たられたりもしたけれど、雨の中、営業に出るよりはマシだと思うことにした。  それにしても他の店舗の人の浮気話だなんて、どこで仕入れてくるんだろう。  こっちは同期ともまともに会えてないっていうのに。 五月十日 水曜日 天気・曇り 体調・まあまあ  なずなが地元に帰って三日目。  今日の午前は損保の試験があった。ちゃんと勉強した甲斐があって、たぶん合格できていると思う。これが無いと営業としては困る、と圧をかけられていたから安心だ。  午後の仕事に間に合えばよかったから、昼食は、同期たちと一緒に試験会場のそばにあるそば屋で大盛りのカツ丼を優雅に食べた。平日は社食ばかり食べているから新鮮で、こんな小さなことでも気分が上がるものか、と新しい発見になった。  それに、同期とグチはもちろん、頑張っていることも言い合えて、元気をもらった。同期の中で一番出来が良かった綾城さんは、もう営業に出ているらしく、営業について一原先輩よりも優しく教えてくれた。  口を酸っぱくして言われたのは、事務課さんと関係が良い方が良いということだった。営業になってサポートしてもらうようになった時に、何かと頼みやすかったり、大目に見てもらえたりするから、だそうだ。  確かに、お局課長とは関係が良い方が良いに決まっている。支店にいない間に、変なウワサでも流されたら大変だ。明日からまた、仕方なく努力するか。  仕事が半日だったことと、昼食のカツ丼と、同期と会ったことが効いたのか、今日は帰って来てから少し詩を書く時間が取れた。週末になったら、早松先生に送ってみよう。久しぶりに添削してもらえるといいな。 五月十一日 木曜日 天気・曇り 体調・少し眠い  なずなが地元に帰って四日目。  金融機関というものは、週初めの月曜日と週終わりの金曜日、それから年金が出る十五日は混むというのが定石だ。うちのような小さな信用金庫でもそれは同じこと。  だから飲み会はたいてい木曜日に行われる。  そして案の定、今日、送別会と言う名の飲み会があった。  上司に気を遣いながらとる食事だなんて苦痛だけれど、断ることもできない。だって綾城さんが、事務課とは仲良くと言っていたから。  今日の主役は、二歳年上の事務課の先輩である林檎さん。  年が近いからOJTとして仕事を教えてくれた人で、支店で一番お世話になっていると言っても過言ではない。怒る時も励ます時もいつでも穏やかな人で、その人柄に何度も助けられた。  そんな林檎さんが、今月いっぱいで仕事を辞めるのだ。寂しい気持ち以前に、変な時期だと思ったけれど、理由を聞いたら納得した。  林檎さんのご両親が倒れてしまい、その二人を支えるには、東京から通うのは無理だからだそうだ。石川と東京じゃ確かに遠いし、移動費もバカにならない。当然と言えば当然の決断だろう。  林檎さんはこの職場での事務知識を活かし、あちらでも金融に務められるように頑張ると話していた。  正直、かっこいいなと思った。  そう伝えると、林檎さんはお酒のせいではなく、照れくさそうに頬を染めて言った。 「パートナーがいるから、なんとかがんばろうって思えたのよ」  なんて羨ましい言葉だろう!  逆光とも言える状況で、力強く笑う林檎さんを一生忘れることはないだろう。 五月十二日 金曜日 天気・晴れ 体調・頭痛、胃のムカつき  なずなが地元に帰って五日目。  林檎さんの送別会はカラオケ付きの二次会まであり、昨日は家に付いたらそのまま玄関で眠ってしまった。おかげで朝は慌ててシャワーを浴びて、朝食もそこそこに家を出なければならなかった。しかも体はバキバキ。頭も痛ければ、胃も痛い。  天気が良いことだけが救いだった。  五月らしい気持ちの良い風も吹いていて、登校中の小学生たちが、風を浴びながらチューリップの歌をご機嫌に歌っていた。  今日は金曜日だったから、当然忙しかった。  それにしても、一年働いた今でも、どうして金曜日が忙しくなるのか、不思議でならない。  だって二日我慢すれば、また金融機関は開くんだよ?  だから、土日に我慢した人たちがやって来る月曜日が混雑するのはわかる。  でも、金曜日に、まるで今日、金融機関がすべて閉まってしまう! とでも言いたげな大慌ての人がやって来ると、忙しさを忘れて笑いそうになってしまう。  まあ、みんな忙しくて疲れてる世の中だから、できるだけ平日のうちに用事を済ませたいんだろうな。その気持ちはわかる。  午後は笑っていられなくなるほど忙しくなり、加えて社食のメニューが脂っこいフライだったせいで、店が閉まる頃には具合が悪くてどうしようもなかった。昨日のお酒も抜けきっていない気がした。  体の具合が悪くなると、気分まで悪くなって来る。  と言うわけで、今日はもう寝よう。 五月十三日 土曜日 天気・曇り 体調・だるい  なずなが地元に帰って六日目。   待ちに待った週末!  午前中は目一杯寝て、昼食にはホットサンドメーカーで冷凍コロッケのサンドイッチを作った。このメーカーはなずなが、サッと作れておいしいから、と言って置いて行ったものだ。二人で過ごしたゴールデンウイークの朝食は必ずこれを使って作った。  無難なクロックムッシュから、デパ地下のでっかいカツを挟んだカツサンド、バナナとチョコレートソースたっぷりの甘いサンドイッチまで、どれもすごくおいしかった。  それと比べると、今日のサンドイッチは少し物足りない気がした。  午後は溜まっていた家事を片づけて、ベランダで詩を書いた。片手には珈琲、ではなくココアと、早松先生の詩集を置いて。傍から見ると、なかなか詩人然としていたんじゃないだろうか。  でも気分はよかったけれど、詩を書き終える度に、誰かに読んでほしくなってしまった。ゴールデンウイークの間は、なずなと読み合えたのに。  たった六日前までできていたことができなくなると、本当に困惑する。それに、寂しさも増した。  夜は豚汁を作った。大根にニンジン、ゴボウ、里芋、長ネギ、豆腐それから豚肉を入れて、多めに作っておけば、しばらく料理をする手間が省ける。  おかげで明日は何もしなくて済むと思うと、今から気持ちが楽だ。  それなら何をしようか。  一日寝てもいいし、思い切って美容院に行ってもいいし、詩を書きまくってもいいかもしれない。  でも、それもものすごくはワクワクしない。  やっぱり、なずながいないのは寂しいし、つまらない。  でも、地元には帰りたくない。  だから、詩人を諦めて、十月一日が過ぎても就職活動をして、どうにか東京で就職したんだ。  自分で選んだ道なんだから、弱気になっちゃいけないんだ。  どうしようもなく寂しかったとしても。 五月十四日 日曜日 天気・雨 体調・最高  なずなが隣にいてくれる一日目。  雨を好きになる日が来るなんて、思ってもみなかった。  また滝の中で溺れる夢を見て、お昼前に目が覚めて、ボーっとベッドに座っていた。せっかくの休日二日目なのに、何もやる気が起きなかった。そしたら、チャイムが鳴った。  ドアを開けると、そこには傘を持ったなずながいた。  信じられなかった。 「あの日の約束よりは早いけど、寂しいから来ちゃった」  そう言ってなずなは照れくさそうに笑った。  それからなずなと一緒に、昨日作った豚汁を飲みながらこれからのことを話した。  なずなは地元の小さな診療所で働いていたのだけれど、そこの唯一の医者である実の祖父の藤さんがとうとう診療所を閉めることにしたらしい。  小児科医だった藤さんは、小さい頃よくお世話になったけど、あの当時からすでにおじいちゃん先生という印象があった。つまり、今は当時よりも歳を取っていることになる。当然の決断と言える。  急に仕事を失って身軽になったなずなは、土曜のうちに実家の荷物を片づけて、東京へやって来たらしい。凄まじい行動力だ。  医療事務ならすぐに求人が見つかるんじゃない? と話すなずなは実に楽観的だ。でもなずなならできると思う。とは言えひとまず無職となり、家もないなずなを助けるため、自分はこれからも今の職場で踏ん張る予定だ。  物理的にも精神的にも数字に追われ、飲み会もあって大変だけれど、なずながいてくれれば乗り越えられる気がする。  これが、「パートナーがいるからがんばろうと思える」ということなんだろう。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!