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そんなことは初めてでございました。夕食の席で華様が仰ったことに、私は驚きに箸を持つ手を止めてしまいました。
「零さんと出かける」
華様は私たちの方は見ずに、小さな声で仰ると綺麗にほぐした鱸をお口に運ばれました。そのご様子は、そこから出る私たちの質問に答えないという意思表示でありながら、敢えてさりげなさを装っていらっしゃるようでもありました。
主人である華様と共に食事を摂ることに、今なお微かな抵抗を感じている源吾が、私がなにか言おうとしたことに気づき、静止しようとしたことを感じましたので、私はなにも質問はせず「かしこまりました」とお返事差し上げたのでございます。
はい、もちろん心中は穏やかではございませんでした。
その夜、源吾は遅くまで例の手帳を確認しておりましたが、そんなことをしなくても私にはわかっております。今までこんなことは一度たりともございませんでした。
「大丈夫なのかしら、お一人で……」
華様から頂戴したワインに少しだけ口をつけて言った私を、恐らく源吾はちらりと見たと思います。
「お一人ではない。旦・・零様もご一緒だ」
昔に比べたら随分優しい物言いをするようになった源吾ですが、その一言の若干の冷たさからは、本当は源吾も不安が拭えないでいることがわかりました。その証拠にさっきからずっと何冊もの手帳を、あちらこちらと確認しております。
以前から、華様が外出されるときには必ず源吾がついてまいりました。私はこの足が原因かとは思いますが、この土地からは一歩も出ることはできません。もし私がこのお屋敷から出ることができたとして、私の存在は誰かにわかるのでしょうか。
華様のお話では、源吾は他の方々の前では問題ないようだということでした。華様を除いてではございますが。
「あなたがお供してはいかがでしょう?」
思わずそう言ってしまったのは、やはり華様が心配だったからに他なりません。
「零様がいらっしゃる」
新しい手帳に何かを記しながら、源吾が申しました。その通りでございます。私が浅はかでございました。
「明日、車の調子を見ておこう」
源吾はそう言うと手帳を閉じ、旦那様からいただいてから、ずっと使っている万年筆と一緒にいつもの引き出しにしまいました。もう休むということです。
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