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とは申しましても、お屋敷にお連れいただきなんとか自分の足で歩くことができるようになった頃は、まだ恐怖から逃れることはできずにおりました。雨の夜はあの小屋を思い出してしまいました。どれほど耳を塞いでも、あの河の水音のように雨の音が聞こえてしまいました。
かどわかされ、両足を折られ、汚らしい男の慰み者にされ続けた夜は、記憶のなかで醜い染みとなって残り続けておりました。
あの小屋で屍となることだけはなんとしても嫌で、なんとか河に身を投げたいということだけを考え続けた日々に比べると、あたたかい布団の中で一人で眠ることが許されていることは、死する前に天国に来たような状態であったにもかかわらず、記憶に苦しむなどとは情けないことでございます。
けれどもしかしたら、そんな天国のような状態になるからこそ嫌な記憶が蠢くのかもしれないと思ったのは、日中、できる範囲でのお仕事をして体を動かしている間は、雨の日であっても嫌な記憶に蓋をすることができていることに気づいたからでございます。
あの夜もそうでした。私は襲ってくる記憶から逃げるように、なにか夜中にできるお仕事はないかと、自分の部屋を出たのでございます。
靴音をたてないように裸足になって、階段にかかったときでございます。階段の途中に小さな影を見つけた私は思わず声を出しそうになりました。ですが小さな影からは、くすんくすんと鳴き声のようなものが聞こえてまいります。
ランプも持たないで動いておりましたので、目をこらせるだけこらせて小さな影を見つめますと、それは夜着のまま階段に座り込んでいる華さまでございました。
いきなり近づいて驚かせてしまってもいけません。私は数段離れたところから、小さくお声をおかけしました。
「華さま、加津です。いかがなされましたか?」
華さまを驚かせないために、お休みになる皆様に聞こえてしまわないために、夜の静寂のなかに溶けてしまうほどの声量に努めました私をまねてか、華さまも小さな小さな声で応えてくださいました。
「かづ? かづもこわいの?」
私はゆっくりと華さまに近づき、華さまを見上げるように階段の途中に座り込みました。
「はい。華さまもですか? どこか痛いところがあるのではございませんか?」
声を殺した私の問いかけに、
「痛くないけど、ここが痛いの」
華さまはそう言って胸のあたりを押さえられます。
「お胸がお苦しいのですか?」
なにかたいそうなご病気ではないかと慌ててしまった私に、華さまは
「レオンがいないの。お部屋にもいないの」
そう仰って、またくすんくすんと泣きだしてしまわれます。
「お坊ちゃまは今日は旦那様とご一緒にお出かけです。明日にはお戻りになりますよ」
華さまに近づいて、その手をお取りしようかとしたときでした。またあの記憶が蘇ってしまったのです。あの忌まわしい。私は穢れております。そんな私が華さまに触れることなど許されるはずがございません。
すぐおそばに跪きながら
「お坊ちゃまたちがお戻りになるまで、お部屋でお休みください。お休みにならないと朝がまいりませんよ」
そう申し上げましたところ、華さまは涙に濡れた大きな瞳で私の顔を見上げられます。
「眠るとレオンは帰ってくるの?」
「はい。華さまがお休みになって、夜の妖精が仕事を済ませたら朝の妖精がまいります。そうして明日になるのですよ」
華さまがお好きな童話のようにお話ししてみました。お気持ちが少しでも癒されればと思いましたので。
私の言葉を聞いて、華さまはゆっくりと立ち上がりました。
「かづ、お部屋に行っても一緒にいてくれる? 雨の音が怒っているの」
そう仰った華さまに薄明かりのなかでもわかるように、大きく頷いてみせました。
華さまは一度腕で涙を拭ってから、私にその手を差し出されました。拒むことなどできず、着物の袖を被すようにして華さまの手をお取りしましたが、華さまは私の素手を覆った薄布を避けてしまわれました。小さな柔らかいお手に触れたとき、まるで天使が私の穢れを拭い去ってくれたような気持ちになりました。
私の指先を包んだ柔らかい小さな掌から、神の慈悲を受けているような気持ちになりながら、華さまと二人で階段を上り、華さまのお部屋への扉を開いたのでございます。
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