始まりの日

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 夕食のためにビーフシチューを煮込んでおります。じっくりと時間をかけて煮込んだこのシチューは、華様の好物ですもので。マシュルームとブロッコリーはもっともっと後で加えますのでバターで軽く炒めてあります。  源吾に言われたように、粥の準備もいたしました。炊き上がった雪平の粗熱をとりましたので、華様のお好きなさらりとした舌触りの粥になっております。  この粥の作り方は、私が実の母から唯一教わった料理でございます。子供の頃の華様はよくお熱を出されましたが、食欲が優れないときもこの粥だけは召し上がってくださいました。涙をいっぱいに溜めた瞳で「加津のお粥が食べたい」と言ってくださった幼い華様のご様子は、今でも声音まで覚えております。  実はこの粥の作り方は誰にも教えておりませんでした。正に加津の秘伝の味でございます。  思えば源吾と夫婦(めおと)になれましたのも、この粥のおかげかもしれません。源吾もこの粥が大層気に入っておりますから。    粥の準備も整い、正午を迎えた私は新しいエプロンに変えてから、華様の寝室に向かいました。   いよいよだと思いますと胸は高鳴っておりましたが、階段を上りながら冷静になるように努めました。  音が出ないように寝室のドアを開けましたとき、一昨日、私が5センチずつ開いたカーテンから、陽の光が差し込んでおりました。   昨夜の月明かりとも、今朝の朝陽とも違う力強い太陽の光と熱が届いている大きなベッドに近づいたときでございます。  ベッドに降りているレースのカーテンの向こうから 「…………加津……」 と華様の弱弱しいお声が。  源吾の言ったとおりでございました。正に源吾の記録のとおりでございました。 「はい、華様。おはようございます」  愛しい華様のお声にほっといたしましたが、華様にとってはそれは間違いだったのかもしれません。 「おはよう・・なのね? 夢ではないのね」 「はい。『おはようございます』でございます」  私の声に華様は小さく溜息をつかれました。 「源吾は?」 「勿論おります。今、庭におります」 「そう……薔薇は?」  レースのカーテンの向こうから聞こえる華様のお声は、諦めたような切なげな響を感じます。  どうか源吾が作った庭が、少しでも華様のお辛い気持ちを癒してくれますようにと祈りながらも、 「満開でございます」  とお答えするしかございません。 「そう。…………変わらないのかしら? おまえも、源吾も」  弱弱しく、切なく響く華様の声はあの頃と寸分違わず、空気を震わすように聞こえてまいります。 「はい、同じでございます。ご準備もすべて整っております。窓のカーテンを開けてもよろしいでしょうか」  華様の溜息が聞こえた気がして、無理に明るくそう言いながら窓に近づきました。 「ええ、お願い」 「かしこまりました」  いくつかある縦に長い窓の半分の数、カーテンを開けるだけで寝室はすっかり明るくなります。今日はまた良い天気でございます。  ベッドの方を見ると、華様は体を起こしていらっしゃいました。  慌ててベッドの側に行き、 「大丈夫でございますか?」  とお声をかけました。 「ええ。私は大丈夫みたい、また大丈夫みたい。加津、こちらのカーテンも開けてちょうだい」  華様がそう仰ったところで、私は天蓋のレースカーテンを纏めました。  そこには陶器のような白い肌に大きな茶色の瞳、そして紅を指さずともほんのりと赤い唇の華様。私の大切な美しい女神は女神のままのお姿で、微かに微笑みかけてくださいます。 「おはようございます」  私は華様の顔を見ながら、もう一度きっちりと挨拶をして頭を下げました。 「加津・・・」  零れるように名前を呼んでいただき、ここにいることをわかっていただけるように 「はい」 と返事をしながら、天蓋カーテンをもう少し開きました。  私の方を見ながら 「ごめんなさいね。あなたたちまで巻き込んでしまって……」  そう仰った華様に首を振りながら 「とんでもございません。華様に助けていただかなければ、私はあの時点で亡くなっておりました、間違いなくとても酷い命の落とし方をしておりました。華様との楽しい時間も、源吾との出逢いも何もなかったのでございます」  早口でそんなことを言ってしまいました。それでも華様の表情からは微笑が消えて翳りに包まれてゆきます。 「こうして御一緒できることは、私も源吾も本望でございます」  ゆっくりとそう付け加えたあと、腿の上で重ねられている白魚のような手にそっと触れさせていただきました。
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