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「加津」
華様の瞳は私を捉えてくださっています。
「なにもご心配には及びません。すべての準備は整っております」
華様にご安心いただけるように、なるべく静かにゆっくりとお伝えいたしました。
「すべて? レオンも?」
「はい。すべてでございます」
私の答えを聞いて、華様はご自身で上掛けを外されました。もちろん部屋履きも御召し物も揃えてあります、私が準備したわけではございませんが。
「バスのご準備もできております」
庭から戻った源吾は、部屋にもキッチンにも私の姿がないことに気がついているでしょう。粥が炊き上がっていることにも。ですので私と華様がこうしてお話をしている間に、もうバスルームには薔薇湯の準備が整っているでしょう。
「いつもの粥も炊けております。先に召し上がりますか?」
私の質問に華様はゆるゆると首を振り、
「先にお風呂に入ります」
と仰って、部屋履きに足を入れられました。
ベッドから立ち上がろうとされた華様を隣から支えたときに、
「加津、あの人は許してくれるかしら?」
不安そうな瞳で私の方をご覧になった華様に、しっかりと頷きました。
「華様、旦那様は華様のことを最初から責めてはいらっしゃいません」
それは間違いございません。なぜならば旦那様は、あれほど長く深く華様を愛していらっしゃったのですから。
その言葉は口には出しません。それをお伝えすることで、今の華様の苦しみが増すことを私も学習いたしましたので。
「参りましょう」
私は華様の体を支えながら、バスルームにお導きしようといたしましたが、華様は思った以上にしっかりとご自身の脚でお立ちになり、歩を踏み出されました。それは華様にとって、幸か不幸かどちらに続く一歩なのでしょう。
あの頃から華様お一人には広すぎると思っていた寝室は、久しぶりに入ってきた光と熱を歓迎しているように思えます。
さっきまで華様が眠っていたキングサイズのベッドも天蓋も、繭の役割を果たしたことにほっとして久しぶりの光を柔らかく受け入れているようです。
こういうものの言い方をしたら昔の源吾は機嫌が悪くなったものです。本当に殿方は情緒ってものをわかってくださいません。もちろんすべての殿方がそうではありませんでしたが、今はどうなのでしょう。
ただ源吾はもう機嫌が悪くなることはありません。私たちが共に生きているということをしっかり理解しております。
「加津……」
華様を支えながら、窓を超えて背中からあたる太陽の陽を温かいと思っていたとき、華様が立ち止まられました。
「はい」
「手をつないで」
そう言った華様が、ふんわりと持ち上げた左手を一旦両手でしっかりと握りしめました。まだ冷たく感じるその手に、少しでも熱を移そうと力を込めたとき
「加津、私はどうすればいいのかしら? どうすればあなたや源吾に幸せになってもらえるのかしら」
私の方を見ずに仰った華様は、少し俯いていらっゃいます。明るくなった部屋の中で、華様の周りだけに暗い影が纏わりついているようです。それはいけません。
私はなるべく元気な笑顔のような声が華様に届くように、一度きちんと背筋を伸ばしてからお答えしました。
「私たちにまでお気遣いいただきありがとうございます。華様のお側にいることが、私と源吾の幸せです。それは間違いございません。そして華様のお幸せを見守ることができれば、私は天国にいるより幸せでございます」
その全ては本心です。私の気持ちと言葉のひとつひとつに纏わせた熱量は、華様にきちんと届いたでしょうか。
「ありがとう」
そう仰った華様は私の方を向いてにこりと微笑んでくださいました。天使のように清らかではございますが、やはりどこか切なさが漂ってしまう微笑みは美しさに隠れる媚薬のように、華様をより魅力的に見せます。切なさと清らかさを併せ持つ華様の微笑みを見たとき、幕は上がったのだと改めて感じました。
「華様、まいりましょうか」
その私の一言は、バスルームにではなく運命への誘いになってしまったのかもしれません。
「うん」
幼い子供のように応えられた華様は、私の手を強く握りしめながら私が寝室のドアを開こうとするのをお止めになりました。握りしめていらっしゃった私の手を放してから、大きく深呼吸をされます。
「加津、私が自分で開きます」
華様のそのお言葉は、小さくですが凛と響き、すべての責任を背負われたこの屋敷の女主人である覚悟を纏われた瞬間であったように思います。
私は、私と源吾は全力でお支えいたします。華様をお守りいたします。
残酷な神と、旦那様に誓って。
【始まりの日 了】
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