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「お兄ちゃん、自分がそこにノートを隠したこと覚えてなかったんだと思うんだ。もし覚えていたら、苦しみから逃れるヒントになったかもしれないのに。皮肉なものだね」
サンドイッチを食べ終わった聖花は饒舌だった。恋人が妹とデートしていることで、聖人さんのことを思い出したのかもしれない。
「聖人さんの日記があったの?」
答えてもらえない覚悟で聞いてみる。
でも聖花は首を振った。
「詩かな、日記みたいなものじゃないけど。愛の詩がたくさん。なかにはシェイクスピアやシュトルムの詩の抜粋もあったけど、お兄ちゃん自身の創作もあった。詩を書いてるのは知らなかったけど。書いたら見せたくなるものでしょ? だからどこかに投稿したりしてたのかな」
それも人それぞれだと思う。自分の心のバランスを取るためだけに書く人もいるだろう。聖人さんならそうかもしれない。
臨床実習を思い出しながら、ぼんやりと考えていたとき、コーヒーを飲みきった聖花がひとつ息をついて言った。
「ねえ、摩耶。そのノートを猿沢先生に見てもらったら、何かわかるかな?」
「えっ?」
「お兄ちゃんの半年分の記憶がなぜなくなったのか」
聖花は、コーヒーカップをソーサーに戻して私の方に体を向ける。あまり見たことがない彼女の表情は笑顔ではなく、真剣な眼差しでありながらとても淋しげだった。大きな瞳のなかに影を感じて、縋られているような気持ちになる。
「それはわからないというか、難しいと思う」
咄嗟に答えていた。それは今、私が学んでいる立場からの答えだった。
「でも、おじいちゃんは聖人さんに話を聞いていたし、そのときの記録もあるから聖人さんのその頃の心理状態はわかるかもしれない」
聖人さんの死の理由はわからない。でもその頃の聖人さんの心理状態がわかれば、自死なのかどうかはわかるかもしれない。
おじいちゃんがノートを見て、自死の可能性が高いと思えば『わからなかった』と言えばいい。違うなら『自死の可能性は低い』と言ってあげればいい。そんなことを知っても聖人さんが帰ってくるわけではないけれど、残された者にとっては救いになる気がする。
「わからない可能性は高いけど、おじいちゃんは考えてくれると思う」
そんなことを言うべきではなかったのかもしれない。でも、私の言葉を聞いたあと、聖花の瞳の影が少し明るくなったように思えた。
「ほんと? じゃあ預けていい?」
聖花はそういうと、バッグからクリアケースに入ったノートを出した。
「聖花、私も見てもいい?」
いったいどんな物を引退したおじいちゃんに見せるのかということを確認したかった。でもそれ以上に聖人さんが書いた詩を読みたかったのかもしれない。
「……いいよ。摩耶は軽々しく口外したりしないってわかってるから」
ノートを見せてもらえるだけでなく、聖花がそう思ってくれていることも嬉しいと思えた。
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