憧れの彼からの提案。

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憧れの彼からの提案。

僕は、小さな劇団の劇団員。 彼に憧れて、演劇という道を選んだけど、 まさか所属劇団の定期公演に、 彼が客演で出るとは思いもしなかった。 力を蓄え、初めて主役の座を勝ち取った。 10人のメンバーで、立ち上げから4年。 毎回、知る人ぞ知るゲスト俳優を 客演で呼ぶというネタがあるとはいえ、 劇場での観客は着実に増え、 チケットを街中で手売りすることは もうなくなった。 今回は特に有名な人が客演で来ると、 劇団員間で噂になっていた。 12月15日夜の、初顔合わせ。 演出家の加藤さんが、入口のドアを開け、 「岸野とダブル主演の川瀬由貴さんです」 と彼を迎え入れた時、 それまで体育座りをしていた僕を含めた 劇団員は、興奮の余り皆立ち上がり、 手を叩いた。 初めて、彼を生で見た。 CMに舞台、テレビドラマに映画と大活躍、 日本を代表する30歳の名俳優のオーラは、 半端なものではなかった。 「ご紹介いただきました、川瀬です。 本番までの2ヶ月、よろしくお願いします」 拍手が鳴り止まない中、彼がちらっと 彼を笑顔で見ていた僕を見た。 たった数秒のことだったが、目が眩んだ。 こんなに圧倒されて演技が出来るのかと 一瞬心配になったが、幸い今夜は台本の 読み合わせはなく、懇親会が開催される。 稽古場近くの個室居酒屋まで、数人の 付き人に囲まれ歩く彼の背中を見ながら、 劇団員の佐橋に囁いた。 「夢みたいだ」 「すごいオーラだよね」 「僕もそう思った」 「岸野、彼のファンじゃん。良かったね」 「うん」 彼の言った通り、これから本番まで2ヶ月。 少しでも実力派の彼に近づけるように、 演技の腕に磨きをかけたいと思った。 「インスタですか?ぜひ上げてください」 懇親会の会場である、居酒屋。 それぞれが席に着き、コース料理が運ばれて きたタイミングで、彼のマネージャーが 脚本家の秋津さんに集合写真を数枚、 彼の公式インスタグラムにupしたいと 提案してきた。 「岸野、川瀬さんの隣に」 それまで彼の隣に座っていた秋津さんに 手招きされ、足が震えた。 また彼と目が合って、ドキドキしながら 微笑むと、彼は初めて僕の名前を呼んだ。 「どうぞ、岸野さん」 光栄過ぎて倒れるかと思ったが、何とか 踏み留まり、秋津さんと席を代わり、 恐る恐る彼の隣に座った。 「じゃあ、皆、川瀬さんの周りに集まって」 加藤さんの掛け声で、劇団員たちがわあっと 集まった。 「では、撮ります」 マネージャーが、デジカメを構えた。 演劇、やってて良かった。 満面の笑みの彼の隣で嬉しさを噛み締めた。 次に彼と会ったのは、その翌々日。 彼の周りに付き人はおらず、マネージャー だけになったようで、一昨日よりもラフな ジャケットに身を包んだ彼に、少しだけ 親近感が湧いた。 ロの字にセッティングした長テーブルの 一角に彼は座り、読み合わせをしながら 時折台本にペンで書き込みをしていた。 今回の話は、脚本家の秋津さんの才能が 冴え渡る傑作だ。 物語は彼が扮する稀代の詐欺師が、 関東大震災で崩れた建物の下敷きとなって 発見されるところから始まる。 野次馬の中には、数年前に新星のごとく 現れた僕が扮する元売れっ子の小説家が いた。 詐欺師と小説家はある雨の日に出会い、 数週間生活を共にしていた。 妻子あることを告げ、突然去る詐欺師を 探す小説家。 遺体は損傷が激しく、顔は無残にも潰れて いたため確証はなかったが、 左手の甲、中指の付け根のホクロと 左足の外反母趾が限りなく詐欺師のそれと 判断することができた。 道ならぬ恋は、詐欺師の死で終わりを告げた かと思われたが、それ以来小説家に 不思議な出来事が起きるようになる。 「面白い話ですよね」 休憩時間、彼が秋津さんに話しかけた。 「ありがとうございます。岸野が芸人を やっていたので、コミカルな展開も入れ込み たくて書きました」 加藤さんも加わった。 「うちの岸野、まだまだ成長中ですので、 ご指導よろしくお願いします」 「そんな、ご指導だなんて」 そう言って、また彼が僕を見た。 「岸野さんに、提案があるんですが」 突然彼に声をかけられて、ドキッとした。 「岸野、行った方が」 近くにいた佐橋に促され、 彼のそばに足を運んだ。 「川瀬さん、何でしょうか」 これが、彼との初めての会話だった。 「本をいただいて思ったんです。 もし、岸野さんさえ良ければ」 「はい」 「僕の家で、一緒に暮らしませんか」 「えっ?!」 彼の意外過ぎる提案に、耳を疑った。 それは秋津さんや加藤さんも同じだった ようで、 「いや、それは」 と言ったきり、黙り込んでしまった。 「うちの事務所には、了解得てます。 今までは面識のある俳優さんとなら、 稽古だけでやっていけましたが、 今回は岸野さんの人となりを知った上で、 役作りをしたいんです。 数週間、暮らしを共にする設定ですし」 なるほど。そういうことなら、喜んで。 「大丈夫です。川瀬さんちに、行きます」 「岸野」 即答した僕を加藤さんが慌てた様子で、 口を開いた。 「岸野は元芸人とはいえ、今はもう 一般に近い者です。それを川瀬さんの ような方のお世話になるなんて」 周りの劇団員たちは、固唾を飲んで 見守っている。 「いや、せっかくだから、岸野。 川瀬さんの家で、生活させてもらいなさい」 秋津さんが、加藤さんに目配せをした。 「じゃあ、決定ですね。今夜から本番まで、 岸野さんは僕の家で暮らすということで」 彼の微笑みに、僕は頷いた。 「荷物まとめて、伺います」 「後で、マネージャーを通じて、 自宅の住所と連絡先をお教えしますね」 劇団員たちは、ざわついた。 「岸野、すげえ」 「これって、内密な話ですよね」 「当たり前だろ。トップシークレットだよ」 岸野葵、29歳。元芸人の劇団員。 スターの彼との縁が今、紡がれ始めようと していた。
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