1 水面の色

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 何年か前に母親も一目惚れしたらしく、自宅から1時間で着くこのマンションの一室を買った。賢人に言った理由は「欲しくなったから」だ。自分の母親らしい理由だと賢人は思う。でも、その思い付きのおかげで、賢人は今ここにいる。  高崎さん曰く、このマンションには面白い人がたくさんいるのだそうだ。 「いろんな人と話してみるといいよ」  そう言われても、自他ともに認める人見知り気質の賢人にとっては、ハードルの高いミッションだ。特に相手が大人の男性というのが難題だ。  そもそも母子家庭育ちの賢人には父親の記憶すら無い。母親曰く「グータラだから追い出した」そうだが、ほんとうに短い結婚期間だったらしい。まともに話をしたことのある大人は、祖父と学校の先生くらいだ。どっちも四角四面な感じがして、賢人は苦手にしている。  高崎さんの言うことを真に受けて実行しなくても、別にいいのだが、何となく無視するのも勿体ない。そう思えたので、賢人は風呂でもエレベーターでも、会った人には取り合えず挨拶をするようにしてみた。  直ぐに、向こうから話しかけてくれる人が何人か現れ、びっくりした。ここは癒しを求めに来るための場所柄なのか、皆が基本的に機嫌がよく、付き合う加減が上手い人が多い。  それに、会話の過程で賢人が通信制の高校生だと説明すると、それ以上は突っ込んで訊かれないのも、気が楽だった。高校生でも、それなりに事情というものはある。  多分、誰でも何かしら抱えたものがあるのだ。そこを斟酌し合い、さらっと付き合うのが大人なんだと勉強になった。  こっちに移ってきてから、良いことが多い気がする。
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