10月14日(月)

6/7
23人が本棚に入れています
本棚に追加
/56ページ
「栄司はたしかに、魅力的な男だったよ。女子からモテた。でも、エヴァの心を奪える人間では決してなかった。僕はそのことを、幼心ながら理解していたよ。だからこそ、栄司の告白を阻止するなんて理由のために、わざわざ手紙を改ざんするような真似はしない」 「は……? で、では、いったい……」  ミアは混乱している様子だ。無理もない。 「僕は手紙を見て、栄司がエヴァに何か大切なことを伝えようとしているのを悟った。でも、告白をしようとしているとは、全く考えていなかった。彼がエヴァに告白しようとしていたという事実は、今日初めて知ったことなんだ」 「では、郡山がエヴァを手紙で呼び出してまで伝えようとした、大切なこと。それを、当時の大和は何だと思っていたのだ?」 「僕のやったこと、だよ」 「え、え……?」 「懺悔するよ。当時、エヴァに数々の嫌がらせをしていたのは、この僕だ」 「なに……?」  ミアは勢いよく、僕に顔を向けた。彼女の瞳は、恐怖と困惑に染まっていた。 「理由も話させてほしい。どうせ懺悔するなら、徹底的にやりたい」  僕は言った。 「僕は、エヴァが日本語を習得して、通常教室にやってくるのが怖かったんだ。日本語が分からないエヴァは、通常教室に籍を置きながらも、ほとんどの授業を特別教室で受けていた。でも、彼女は賢い子だった。日本語をみるみる身に着けていっていた。通常教室で授業を受けたいという気持ちも強かった。もしエヴァが生きていれば、たぶん六年生になる前には、全ての授業を通常教室で受けられるようになっていたと思う。そうなれば、エヴァは僕以外の生徒と仲良くなってしまう。耐え難いことだった。考えただけで吐きそうになった。エヴァが僕以外の大勢と心を通じ合わせるようになるのは、時間の問題だった。エヴァが僕から離れていくのが怖くて怖くて仕方なかった。だから僕は、通常教室に架空の悪役を作り上げたんだ。エヴァがその悪役を恐れて、通常教室で授業を受けたいという願望を捨て去ってくれればいいと思った」 「……それで」  ミアは言った。彼女にしては珍しく、緊張した様子だ。 「嫌がらせの犯人が大和であることを、ある時、郡山に知られてしまった。そんなところか?」 「正解だよ。ちょうど、栄司が手紙を持って神織町に来た、あの日の直前のことだ。脅迫の手紙をエヴァの机に入れる瞬間を、見られてしまったんだ。精一杯誤魔化したけど、うまく騙せた自信はなかった。でも、今日栄司に聞いてみたら、全く気付いていなかったらしい。僕の杞憂だったわけだ」  しかし当時は、気が気ではなかった。いつ栄司がエヴァにチクるか、心配で仕方なかった。だからこそ、その出来事の直後に栄司が神織町にやってきたときは、いよいよ焦った。手紙でエヴァを呼び出して、そこで僕の犯行をバラす気なのだと早合点してしまった。パニックになった僕は、時間稼ぎにしかならないと分かりながらも、手紙を改ざんしたのだ。 「昨日ミアは、僕に言ったよね。もし世界に、言語がひとつだけだったらいいなと思うか、と」  ミアは何も言わなかった。表情ひとつ変えない。険しい顔を、宙にぴたりと固定している。  波の音が、やけに際立って聞こえた。 「少なくとも昔の僕は、そうは思わなかった。日本語と英語という異なる言語が存在することに、心から感謝した。言語の壁があるおかげで、エヴァが僕以外の誰かと仲良くなるのを防ぐことができた。言葉の壁の内側で、僕はエヴァと二人だけで静かに語らうことができた。それは僕にとって、間違いなく幸福な時間だった」  僕はゆっくりと目を閉じた。瞼の裏に、エヴァの笑顔がうっすらと浮かび上がった。 「でも、エヴァはそう思ってはいなかったんだろうね。彼女はいち早く日本語を習得して、たくさんの友達と話がしたかったんだろうね。彼女にとって、僕はただの英語ができる友人に過ぎなかったんだ。僕が勝手に、自分は特別だと思い込んでいただけだったんだ。思い上がりもいいところだ」  僕は依然として、目を閉じていた。このままずっと閉じていたかった。もう何も見たくないし、感じたくもなかった。 「今度こそ、僕の話は終わりだよ。話せてよかった」  言い終えると、僕はピリオド代わりのため息をついた。自分でも驚くくらい、爽やかなため息だった。疲労や苦悩ではなく、達成感や開放感から生じたため息だ。  やるべきことはした。  真相を知ったミアが僕にどんな感情を抱くのか。それは分からない。怒鳴り散らすかもしれないし、殴るかもしれない。それはミアの自由だ。僕はそれに対して、抵抗する気は微塵もない。言い訳もしないし、彼女が振り下ろした手を避けるつもりもない。  ミアが僕をここから突き落とそうとしても、抵抗しない。  むしろ、そうしてくれるとありがたい。  エヴァを殺した僕を、殺してほしい。  裁きを下してほしい。 「大和」  ミアが一歩僕に近寄ったのが、気配で分かった。  僕は目を開けた。すると、想像していたよりずっと、ミアの顏はそばにあった。二人の距離は、吐息を感じられるくらい狭くなっている。    僕はもはや、身構えすらしなかった。ミアが僕にどんな裁きを下そうと、喜んで受け入れるつもりなのだから。 「いままで、つらかったな」  ミアはそう言うと、僕の背中に両手を回し、ぎゅっと力をこめた。  ……。  ……え?  いったい、何を……? 「ミア……?」  はっきり言って、僕はパニックだった。  なんだ? ミアは、何をしているんだ?  なぜ、僕を抱きしめているんだ? 「ずっと、一人で抱え込んでいたのだろう」  ミアは囁くように、優しく、言った。 「……うん」  自分でも意外なくらい、素直に言葉が出た。 「自分を責め続けていたのだろう。自分のせいでエヴァが死んでしまったのだと」 「……うん」  そのとおりだ。記憶を取り戻した僕は、そう断言できる。  僕は、エヴァの死の状況を聞いた当時、すでに真相に感づいていた。僕がマリア像にお守りを置いたこと。そして、栄司の手紙を書き換えて、エヴァを岬に誘導してしまったこと。これらが、エヴァの死に無関係だとは、どうしても思えなかった。  僕は自分を責めた。証拠も証言もなく、判決は宙に浮いた状態だったけど、おそらく悪いのは自分なのだという予感があった。    僕は心に透明な罪悪感を抱えたまま、今日まで生き続けた。  死刑は確実なのに、判決だけが先延ばしされているような日々を過ごしてきた。 「つらかった。自分のせいなのかすら確証が持てなくて、心の置き場がなかった。でも、今日、ようやく分かった。僕は、取り返しのつかないことをしてしまったんだ……」 「大和は悪くないさ」  僕のほうが、ミアより頭一個分背が高い。だから傍から見れば、むしろミアがあやされているように映るかもしれない。でも、あやされ、慰められているのは、僕だ。  ミアは聖母のような慈悲深さで、僕を包みこんでくれている。 「僕は、許されないことをした……」  僕の頬を、一筋の涙が伝った。    やっと、涙を流すことができた。  僕はエヴァの訃報を聞いたとき、泣くことができなかった。直前に父さんの臨終に立ち会って、涙も気力も枯れ果てていたからだ。エヴァが死んだという事実が、遠い国の出来事に感じられた。後日、ようやくエヴァの死の事実に向き合えるまで回復したときにはすでに、僕の中には悲しみに対する抗体が出来上がってしまっていた。棺桶の中のエヴァを見たときも、涙は出てこなかった。  頬を伝った涙が、ミアの髪の毛に落ちた。 「許されないって、誰に?」  ミアは噛んで含めるように、そう尋ねた。 「世界中のみんなだよ」 「そうだとしても――」  ミアはひと際、僕を抱く力を強めた。そして言った。 「――私は、大和を許すよ」
/56ページ

最初のコメントを投稿しよう!