10月1日(火)

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10月1日(火)

「ッハ……!」  僕は勢いよく目を覚ました。まるで背中を槍で貫かれたかのように、体がぐっとのけ反る。新鮮な空気を求めて、口が限界まで開かれる。  何度か大きく咳き込んだあと、僕は叫ぼうとした。でも声は出なかった。口から漏れる空気は、無意味なノイズとなって宙に吸い込まれてしまう。  体がひどく重い。息が詰まる。視界が霞んでいる。  どう贔屓目に見ても、僕のコンディションは最悪と言わざるを得なかった。  僕はいま、うす暗くて狭い場所に仰向けの恰好で寝かされている。  ここは、どこだ……?  ひとまず起き上がろうとするも、体が言うことを聞かない。金縛りに似ている。意識はあるのに、体が動かないのだ。  なんなんだよ! どうなってんだよ! 叫び声は、心の中でしか響かなかった。  落ち着け、と自分に言い聞かせた。冷静になれ。焦ってうまくいくことなんて、この世界にひとつたりとも存在しない。  僕は眼球を動かし、状況の把握に努めた。  仰向けに寝転がる僕のうえに窓がある。そこからほのかに、光が射しこんでいる。月明りだ。  どうやら、いまは夜のようだった。そして僕がいるのは、車の中だった。その後部座席で、僕はわけも分からずもがき苦しんでいる。  車の中には、不気味な煙が漂っている。死の匂いがする煙だ。月明りがその煙の中を散乱しながら通り抜け、不気味な輝きを帯びている。  本能的に悟った。僕は死ぬのだと。  なぜだ? 僕はなぜ死ななければならない? こんな祝福の欠片もないような場所で!  理不尽だ。強くそう思った。途端、体に活力が流れ込んでくるのを感じた。  指先に力が戻る。次に掌。手首。腕……。体に活力がみなぎってくる。  僕を頭上に手を伸ばし、ドアの取っ手に指をひっかけた。金属のひんやりと冷たい感触がが伝わってくる。僕は取っ手を思いっきり引っ張った。  ガチャリと、無機質な音が落ちてきた。それと同時に、透き通った空気が車内に流れ込んできた。ドアが開いたのだ。  僕はドアを押し開けて、車の外に転がり落ちた。肩から地面に落下した。大した高さじゃないけど、痛みは大したもんだった。その痛みは、僕の切れかけの脳味噌を鞭打ち、意識を明瞭にしてくれた。 「はあ……はあ……」  肺が外気を熱烈に歓迎する。  息を整えるのにはずいぶんと時間がかかった。息と気持ちが落ち着いてくると、入れ替わりに激しい頭痛と吐き気が僕に飛び込んできた。僕の苦痛はシフト制なのだろう。  立ち上がれるようになるには、もう少し時間がかかりそうだ。  夜空が見える。投げたら戻ってきそうな鋭い三日月が浮かんでいる。その前を、薄雲が時折申し訳なさそうに横切っていく。  あたりには木々が生え、夜空を突き刺そうとしている。そばを二車線道路が走っていて、ときおり車が通る。  ここは、山道の脇にある小さな空き地のようだった。車をUターンさせたり、パンクを修理したりするのに重宝されそうなスペースだ。    そして僕はさっきまで、そんな場所に駐車された自動車の中にいたのだ。  頭を傾けて周囲を窺ってみる。近くには人家らしきものは見当たらない。時折、そばの車道を車が通りぬけるけど、誰一人として僕に気づく者はいない。あるいは、気づいたうえで無視しているのかもしれない。冷たい人たちだ。  だんだんと体の自由を奪っていた透明な疲労感が去り、僕は立ち上がれるようになった。それでも、激しい頭痛と吐き気は健在だ。  僕はふらつく足取りで、車に近づいた。さっき僕が内側から開けたリアドアから、不気味な煙が漏れ出している。 「……ん?」  後部座席の足元に、皮ベルトが落ちている。僕はそれを拾って、まじまじと観察した。  皮ベルトは、紛れもなく僕のものだった。もがき苦しんでいるときに、ズボンから外れてしまったのだろうか?  しかし、それはどう考えてもおかしな話だった。まず第一に、ベルトは普通そんな簡単に外れたりはしない。  第二に、そもそも今の僕は寝間着のスウェット姿なのだ。スウェットはベルトを装着できない。  ていうか、なんで寝間着姿なんだよ、僕……。  ひとまず僕は皮ベルトを丸めて、ポケットに無理やりつっこんだ。  続いて、運転席のドアを開けた。待ってましたとばかりに、煙がゆらりと這い出てきた。  ふいに、スピードメーターの脇についたデジタル時計が目に入った。エンジンが止まっているにもかかわらず数字を表示しているところから鑑みるに、外付けの時計のようだ。 「0:33 10/1」という青白い数字が、闇にぼんやりと浮かび上がっている。十月一日の0時33分、と僕は思った。良い子は寝る時間だ。悪い子もほとんど寝ているだろう。  いったい僕の身に、何が起きたのだ……?  なぜ僕はこんな時間に、こんな場所にいるんだ?  こんな場所に来た覚えなんてないし、ましてや誰の物とも分からない自動車に侵入した覚えもない。とうぜん火遊びをした覚えもない。    それから僕は、煙のもとを探した。何かが燃えているのは明らかだ。アクション映画みたいに爆発されては面倒だ。    僕は助手席側に回りこんで、ドアをあけた。そして見つけた。 「これは……」  煙の正体は、火遊びによる失火なんかではなかった。 「マジかよ……」  思わず声が漏れた。  結論から言うと、車の中に漂っていた煙の正体。それは、練炭だったのだ。助手席の足元に七輪が置いてあり、その中から不完全燃焼特有の禍々しい煙が上がっている。  練炭だと結論づけたが、七輪の中身を確かめたわけではない。たぶん見ても分からないし。だけど、現状に自らの知識を重ね合わせれば、自ずと真相は浮かび上がってくる。  僕は危うく、一酸化炭素中毒で死ぬところだったのだ。  僕は恐怖で後退った。そのまましばらく呆然としていた。  だけどだんだんと無性に腹が立ってきた。こんなにも熱い怒りを覚えたのは、生まれて初めてかもしれない。  僕は落ちていた石を拾い上げた。テニスボールくらいの大きさの石だ。そして僕は、それを車に向かって投げつけた。  石は、閉まったままのリアドアのウィンドウに直撃した。ウィンドウは鋭い悲鳴をあげて、粉々に砕け散った。    やった後になって後悔した。僕がしたことは、どこに出しても恥ずかしくないくらい立派な器物損害だった。    激しい頭痛とめまいを引き連れて、僕は逃げるように山道を下った。
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