10月11日(金)

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 階段を上るにつれ、海を望むマリア像の背中が近づいてくる。途中、開けた場所に出て、そこには小さな祠がある。祠の前には、これまた小さな恵比寿様の像が設置されている。ここは恵比寿神社なのだ。  ひとつの小さな岬に、恵比寿神社とマリア像が共存している。初めて訪れた人は、ちょっと混乱するかもしれない。 「ずっと昔から、ここは恵比寿神社だった。後の1949年に、聖フランシスコ・ザビエル渡来400周年を記念して、マリア様の像が建てられた。だから、マリア様と恵比寿様の、不思議な共存が実現しているんだ」  ミアがまじめな解説をしてくれた。  僕はそのへんの事情をまったく知らなかったので、感心する思いだった。  さらに階段を上がると、頂上に到着した。頂上は展望台のような造りになっていて、周囲を一望できる。  頂上の通路は、マリア像をぐるりと囲むように設けられている。通路の外側には、落下防止用の柵が巡らされている。僕たちは像の正面に回った。  柵に背を向け、マリア像と対面する。5メートル近い高さの、真っ白な像だ。両手を腰のあたりで開いて、正面に向けている。月光に映えるその佇まいに、思わず圧倒される。  ミアは目を閉じて、マリア像に向かって何やら呟いた。彼女もマリア像と同じように月光の祝福を受け、その美しいブロンドの髪を闇に浮かび上がらせている。僕だけが、月に見放されているような気がした。  僕は少し迷ってから、ミアに倣って目を閉じることにした。何を呟けばいいのか分からなかったので、口は開かなかった。  やがてミアはマリア像から少し離れ、落下防止用の柵を撫でた。そして言った。 「エヴァは、ここから落ちた」  そのポイントは、マリア像の右手が頭上にくるあたりだ。とうぜん柵の外側は崖になっており、真下は岩場だ。落下でもすれば、無事では済まない。10メートルほどの高さがある。  僕は、柵のむこうを覗きこんでみた。明かりひとつない。崖の下には夜の塊が広がっていて、ずっと見つめていると吸い込まれそうになる。  僕は視線を崖の下から引き揚げた。そして、崖の斜面から斜めに生えている松の木を見た。小学生のころは何とも思わなかったけど、改めて見ると、この松の木はどうしてこんなギリギリの場所に生えてしまったのだろうと、ひどく哀れな気持ちになる。たとえ僕が今日死んだとして、絶対にこの松には生まれ変わりたくない。 「そうだね」と僕は言った。「エヴァの死体は、ここの真下の岩場で発見された」 「でも、それは、とても不自然だ」 「賛成だ」僕は頷いた。「でも、もしかしたら、僕のそのへんの記憶はバグっているかもしれない。それを確かめる意味でも、当時の状況を説明してくれないかな?」 「いいだろう」とミアは答えた。それから柵を手でさすった。「この柵は、私の胸あたりまでの高さがある。おそらくエヴァの身長と同じくらいの高さだろう。そんな高い柵の向こうに誤って落下したとは、ちょっと考えにくい。風に煽られてとか、足を滑らせてとか、そういった単純な事故で落ちるのはありえない」  異論はない。  僕は話の続きを促した。 「ただ、この柵は、見てのとおり隙間が空いていて、体の細い人なら通り抜けられる。子供なら、なおさら」 「そうだね」僕は柵の隙間に手を通しながら言った。「でも、柵を通り抜ける理由なんてない。柵の向こうには、崖しかない」 「問題はそこだ」ミアは爪で柵をかつかつと叩く。「エヴァが、そんな危険な真似をするはずない」 「エヴァは、誰かの手によって、柵の向こうに放り投げられた。あるいは隙間から押し出された」 「私はそう考えている」 「でも警察はそう考えなかった」 「そう。警察は捜査なんてろくにしないで、エヴァを事故死だと決めつけた。理由は簡単。ここまで来るには、防波堤のうえを通る必要がある。そして、防波堤の入り口の近くには、家が建っている。寺内さんのお家」  いまのところ、僕の記憶とミアの話に齟齬はない。続きを促す。 「寺内さんは高級な車を持っていたから、念のためにガレージに防犯カメラをつけていた。その映像が決め手だった」とミアは言った。「カメラは、防波堤の入り口が映る角度で取り付けられている。その映像に、岬へ一人で向かうエヴァの姿が映っていた。そして、その次に防波堤のうえを通ったのは、湯田(ゆだ)さんという、教会の信徒の男性だった」  湯田さん、と僕は思った。その名は、交換日記の中に何度か出てきた。  ちなみに僕は、湯田さんにじっさいに会ったことはない(会った記憶が喪失している可能性もゼロではないが)。 「その湯田さんが、エヴァの次に防波堤を通った人間だった。そしてその際に、彼は死体を発見した。つまり、湯田さんがエヴァの死体を発見するまで、他に誰も防波堤の上を通らなかったということだ」 「そして」と僕は言った。「その湯田さんは、犯人ではない」 「それは明らかだ。湯田さんがマリア像を訪れるために防波堤の上を通ったのは、月曜日の午前中。でも、エヴァの死亡推定時刻は、前日の日曜日の夕方から夜にかけてだった」ミアは小さなため息をついた。「そして何より、湯田さんがエヴァを殺す理由はない」 「エヴァを殺す理由のある人間なんて、本来一人もいてはならないよ」 「エヴァはみんなに愛されていた」 「間違いなく」 「でも、エヴァを殺そうとしていた人の心あたり、全くないわけではない」  ミアにしては珍しい、曖昧な表現だ。 「というと?」 「エヴァは、一時期ストーカー被害に遭っていた」  そうだった。そのことは、交換日記にしっかり記されている。僕はその記述を見て、エヴァが殺された可能性にたどりついたのだ。 「エヴァはストーカーから不気味な悪戯を受けて、悩んでいた時期があった。サタンの仕業だ」  ミアは昔から、「サタンの仕業」という言い回しを好んで使う。サタンという悪魔が、人間を悪の道に導くと、彼女は信じている。ストーカーもサタンに唆された一人だと、そう言いたいのだろう。  まあ、彼女は以前、待ち合わせに遅刻した時も「サタンの仕業だ」と言っていた気がするから、冗談としても使用するのだろう。 「エヴァは、そのことを湯田さんに相談していた」とミアは言った。 「たしかに、日記にそんなことが書いてあった」 「湯田さんは警察官だ。頼れる人だ。英語も多少できたから、話しやすかった」  僕は柵に背中を預けた。そして、夜空を突き刺すように立っているマリア像を見上げながら言った。 「僕たちの次の行動は決まったね。湯田さんに話を聞く」 「それがいい」 「湯田さんは」  僕は、ここからそう離れていない建物を指さして言った。濃厚な夜闇の中でも、その建物は確かな存在感を放っていた。 「あの神織(かみおり)教会に通っているんだよね? じゃあ、夜が明けたら行ってみよう。湯田さんに会えるかもしれない」 「湯田さんは、最近教会に来ていない」 「じゃあ、誰かに連絡先を聞こう。教会の人なら、誰かしら知っているはずだ。そんで、僕たちのほうから家まで直接会いに行けばいい」 「名案だ。大和は行動派なのだな」 「僕の好きな名言は、『Imagination means nothing without doing』(行動を伴わない想像力は何の役にも立たない)なんだ」 「チャップリンの言葉」とミアは言った。 「あ、知ってた?」 「当たり前だ。昔、私が教えてあげたのだから」  ミアはふっと笑みをこぼした。それから「家に帰ろう」と言って、僕の肩をぽんと叩いた。  僕は頷いた。それから「ひとつ謝りたいことがある」と言った。 「なんだ?」 「僕、実は、テングザルは写真でも見たことがないんだ」 「あとでググってみろ。かわいいから」
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