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私はその女に呼び止められたとき、彼女の周りに光の粒が舞っているのを見た気がした。
「もし、旦那様。少しよろしいかしら」
顎の位置で切りそろえた髪がモダンなその女性は、妖艶に、しかし少しも媚びた感じもない笑みで私を引き留めた。
平素から私は急ぎ足で歩く癖があった。人々が寝静まり、民家から漏れる光が当てにならなくなった真夜中で、自分以外に出歩く者がいるなど疑いもしなかったので、彼女に声をかけられたときに咄嗟に止まることができなかった。「なんだね」と聞き返しながら、足はせかせかと前へ進んで思いやりの欠片もない態度であった。
それでも美人は戸惑うことも焦ることもなく私に歩調を合わせて横に並び歩いてきた。踵の高いブーツの立てる鼓動が早くなり、聞いているだけで息切れがしそうだった。私はやっと歩調を緩めた。止まってやるのがよいのだろうが、追随する彼女を見るとその必要もなさそうだ。
私に合わせてブーツのリズムが遅くなった。私たち以外誰もいない、うとうとと微睡む街路を叩き起こすような高らかな音を奏でるその靴は、いつから私の背後にいたのだろう。彼女の姿を確認するまで、人の足音など全く聞こえなかったはずなのに。つまらない道を一人歩きながら深い思考をしていて気づかなかったのだろうか。それならば私は今まで欲しくてならなかった集中力というものを得たということになるのかもしれない。
淑女は真っ黒な瞳を私の方に流して、上目遣いで見つめてきた。
「道案内を頼みたいのだけれど、よろしいかしら」
「ええ、構いませんが、どこへ行きたいのかな」
今日は風が強かった。人のいなくなった街を自由に駆ける風が思いがけず二人の男女に勢い余って衝突してくる。美しい女はそれを抱きしめ受け止めるように両腕を突き出した。縞模様の着物の裾が鯉のぼりの腹のように膨れた。彼女は楽しそうであった。
「どこへ行きたいということはありませんわ」
「それでは道案内もできない」
「あなたに同伴できればそれでいいの。その前に一つ確認したいのだけれど、あなたの行く先に光はある?」
「私は特定の宗教には入るつもりはないよ、申し訳ないけどね」
天女はけらけらと笑った。甲高い声のわりに、響かなかった。
「違います。言葉のとおりよ。あなた、帰ろうとしているのかしら? 家に帰って寝るのかしらね。でも、玄関は真っ暗よね。それじゃあ布団に入る前に転んでしまうでしょう? それなら……?」
「明かりをつける」
「そう、それよ」
女神は満足そうであった。カッ、と一つ、路面を蹴った。
「私は光の方へ行きたいの」
聖女の機嫌が良くなる一方で、私は内心困っていた。
光の方へ行きたいだと? 私の家には明かりはあるが、それをあてにしようというのか。私には妻がいる。たった一人の伴侶は私が女一人を連れ帰って来ても事情を話せばわかってくれるだろう。実際、やましいことなどないのだから。しかし私が嫌だった。妻との空間を邪魔されるような感じがした。それに、明かり目当てというのは宿が欲しいということだろうが、私の家は宿屋ではないから急な来客に対応などできない。
「お嬢さん、悪いがね」
「あなた、私が一夜を明かす場所に困ってて声をかけたと言いたいの?」
「違うのか」
「違うわよ」
少女にもマダムにも見える不思議な女は、革手袋をつけた手の人差し指を立て、口へと当てた。
「心配しないで、迷惑なんてかけないから、本当に。光さえあれば、あなたとはそれっきり。ね」
こんな夜に明かりもなく歩けているのは今夜が満月だからだ。まん丸な月が辛うじて相手の顔を照らしてくれる。いかにも怪しい彼女の姿が確認できなければ、私は走りはせずともいつものような急いた歩き方をやめなかっただろう。彼女のブーツの音は、そのまま私の鼓動と共鳴していたに違いない。
「お嬢さん、こんな夜中に一人だと危ないよ」
「旦那様が横にいるじゃない」
「私と会うまでは一人だったんだろう」
「私はずっと一人でしたわ」
そう言う魔女の声に悲哀はなく、むしろあっけらかんとしていた。
「私ね、誰のプロポーズも受け入れないの。どんなに素敵な方がいらしても、無駄。私は誰とも交尾せずに死ぬの」
「交尾とは、動物的な言い方だね」
「それなら何と言えば人間的なのかしら」
私は答えなかった。
女神もそれ以上追及してこなかった。代わりに、「どんな言い方でも変わらないわ、私が好きなのは光だけ」と謳った。
「そんなに光が好きなら昼間に出歩けばいいじゃないか」
横で鼻が鳴る音がした。
「昼間じゃ意味がないわよ。私が欲しいのは太陽じゃないもの。あなた、お日様の下で明かりをつけて、ああ、明るい、これでものが見えるぞ、なんて言うのかしら?」
私は降参した。それに疲れていたから、この娘を家まで連れて帰ってもいいと思い始めていた。妻には迷惑をかけるかもしれないが、妻が嫌というのなら駄賃でも渡して追い返せばいい。
家の軒先まで来た。月の光が途絶える。門を開けて入るだけだから見えなくても問題ない。
袂から鍵を取り出すと、それは私の手を逃れ、地面に落ちた。キンと音がしたが、私と長年付き合ってきた鍵は薄情なことにじっと息をひそめてしまった。地面をまさぐっても手に当たるものがない。
「少し待っててね」
横で立ったままの客人にそう言って、私は袂から小さな箱を取り出した。その箱を横にずらし、中から棒を一本つまんだ。
マッチ棒が箱の側面を走り、短い小さな悲鳴を上げて燃え上がった。
煙草を嗜む習慣があって幸運だった。火は燃やすだけでなく明かりにもなるのだ。
私が落ちた鍵を探そうとマッチ棒片手に屈もうとしたとき、女人は私の腕をつかんだ。
私が何か言う前に、彼女はちゃちな棒に灯った火に顔を近づけ、キスをした。
火が一瞬大きくなり、すぐに元に戻った。
私は驚いて目を瞑ってしまった。まぶたを上げると、そこにもうあの女はいなかった。
ただ、マッチ棒の火で地面を照らすと、そこには私の落とした鍵と、身の焦げた蛾の死体があった。
すでに死んでいる彼女の周りには少量の鱗粉が散っていて、明かりに反射して一瞬煌めいた気がした。
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