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小説家・東野圭吾
娘の元子から、会って欲しい人がいるので、今度、家に連れてきていい、と、言われたのは、夕食を終えた時のことだった。
爪楊枝で歯の掃除をしていた東野圭吾は、ぎくりとした。
もう少しで、爪楊枝の先で、歯茎を突き刺すところだった。
ついに来るべき時が来たのか、と覚悟を決めた。
しかし、狼狽を悟られたくはなかった。
湯のみ茶碗を引き寄せ、わざとゆっくり茶を啜った。
ふうん、と関心のなさそうな声を出した。
「もちろん、男だよな?」
「うん」
と娘の元子は頷いた。
ふうん、と東野圭吾はもう一度言った。
妻の邦子は台所で洗い物をしている。
「どういう人だ?」
東野圭吾は訊いた。
ぶっきらぼうな口調にならないよう気をつけた。
「それがね・・・お父さん、聞いてびっくりしないでよ」
元子は、変な言い方をした。
東野圭吾は、ごくりと唾を呑んだ。
プロレスラーか、イスラム国の戦闘員か、暴力団員か、殺し屋か、などと、色々、考えた。
「彼は小説家志望のフリーターなの」
東野圭吾は、びっくりした。
「な、なにー」
圭吾は、思わず、大声を出した。
元子は、淡々と話し出した。
「彼とは、コンビニのアルバイトで、知り合ったの。一緒に働いているうちに、親しくなってね。彼は、シャイだから、なかなか、自分の事を話さなかったの。でも、ある時、彼が、お父さんの、最新刊を本を読んでいたので、(それ。面白い?)、って聞いたの。そしたら、(うん。面白いよ)、って言ったの。私も、それ、読んだわよ、って言ったら、(へー。君も小説を読むの?)、って、以外そうな目で、私を見たの。それで、小説の話で盛り上がって、彼と話すようになったの。彼は、大学を卒業して、会社勤めをしてたんだけど、本格的に、小説家を目指していてね。会社の長時間労働では、小説が書けないから、と言って、会社を辞めて、フリーターになったって、言ったの。時間のある時は、いつも、小説を書いているらしいの」
元子は、言った。
元子は、大学3年生で、コンビニでアルバイトをしている。
「それで、彼が、勤めていた、会社というのは、どこだ?」
東野圭吾が聞いた。
「電通らしいわ」
「電通といえば。それゃー、一流企業じゃないか。辞めるなんて、もったいない」
「でも、電通は、長時間労働で、ひどかったらしいわよ。彼は、土日、も、休日返上で、働いていて、睡眠時間は、3時間だったらしいわ。それで、これでは、小説が書けない、と言って、辞めたらしいの」
元子は言った。
「それから?」
東野圭吾は娘に話の続きを求めた。
「それでね。私の父も、小説家よ、って、言ったの。そうしたら、彼は、びっくりして、すごく、私の、父のことを、知りたがってね。私の父は、東野圭吾、って言うの、って言ったの。そうしたら、彼は、顔を青ざめて、ま、ま、ま、ま・・・まさか。あ・・・あ・・・あの、容疑者Xの献身、で直木賞をとった、あの、東野圭吾先生?」
と、声を震わせて、聞いたの。
「私が、うん。そうよ、って、言ったら、彼は気絶しちゃってね。救急車で、病院に運ばれたの。彼は、お父さんを、神様のように、尊敬しているみたいよ」
元子が、言った。
「そうか」
東野圭吾は、ため息をついた。
「それで、どうなった?」
東野圭吾は、話の続きを求めた。
「それがね。彼は、翌日、病院を出たの。一過性の脳貧血で、問題は無いって、先生が言ってたわ」
「そうか。それで、どうなった?」
東野圭吾は、話の続きを求めた。
「それがね。困ったことになったの。私の父が、東野圭吾、ということを、知ってから、彼の態度が、変わってしまったの」
元子は、言った。
「どう変わったんだ?」
東野圭吾が聞いた。
「コンビニのアルバイトで、一緒になっても、私と、距離を置くようになったの。何か、いつも、悩んでいるようになったの」
元子は、言った。
「それで、どうした?」
東野圭吾は、話の続きを求めた。
「ある時、彼は、私に、別れよう。もう、付き合うのは、やめにしよう、って言ったの」
元子は、言った。
「何で、彼は、気が変わったんだ?」
東野圭吾が聞いた。
「お父さんは、ミステリー作家でしょ。その理由を推理して、当ててみてよ」
元子は、言った。
東野圭吾は、うーん、と、腕組みをして、眉を寄せ、考え込んだ。
10分ほど、経った。
「わからないな。彼の、心変わりの理由は。教えてくれ」
東野圭吾は、言った。
「それがね。彼は、言ったの。(尊敬する東野圭吾先生の娘さんを不幸にすることは出来ないから)、って」
元子は、言った。
「うーん」
と、東野圭吾は、唸った。
「すごい発想をする男だな」
東野圭吾は、呟いた。
「それが、本当に、お前と別れたい、という理由なのか?」
東野圭吾が聞いた。
「ええ。本当よ。彼は、私を愛してくれているわ。でも、お父さん、は、小説家志望の人たちに、小説家なんて、危険極まりない職業を目指すのは、やめろ、って、言っているでしょ。もっと、無難な堅実な仕事に就けって。彼も、そのことは、知っているわ。それで、彼は、悩んでるのよ。私を幸福に出来る、という保証がない、でも、私を愛している、という、葛藤に」
元子が言った。
「それで、私が言ってあげたの。小説家として、認められない、という保証もないじゃない、って。ともかく、父と会ってみなさいよ、って言ったの」
元子が言った。
「それでどうした?」
東野圭吾が聞いた。
「彼は、もう、自分の意志では、決めかねて、結論を出せないような、状態だったの。それで私は言ったの。あなた男でしょ。そんな、自分に自信の持てないような、弱気な男じゃ、小説家になんか、絶対、なれないわよ、って。それが決め手になって、彼は、(わかった。じゃあ、会うよ)、って、言ったの」
と元子が言った。
「そうか」
と、東野圭吾は言った。
「それで、彼は、どんなジャンルの小説を書いているんだね?」
東野圭吾が聞いた。
「そうね。色々なジャンルに挑戦しているわ。でも、ユーモア小説が、多いわ。お父さんの、小説では、笑小説シリーズの、怪笑小説、毒笑小説、黒笑小説、歪笑小説、が、一番、好きと言っているわ」
と元子が言った。
「そうか。しかしね。文学賞は、ユーモア小説では、受賞しにくいぞ。斬新な、激しい、激情的な、人間ドラマがない作品だと、文学賞は、受賞しにくいぞ」
と、東野圭吾は、言った。
「彼も、それは、自覚しているみたい。だから、職業作家になれるか、迷っているのよ」
と元子は言った。
「彼の創作歴は、知っているかね?」
東野圭吾が聞いた。
「文学賞に、3回、ほど、応募したことがあるらしいの」
元子が言った。
「それで、結果は、どうだった?」
「3回とも、一次予選も通らなかったらしいわ」
「そうか」
東野圭吾は、残念そうに、ため息をついた。
「でも、彼の創作にかける情熱は、本物だと思うわ。だって、彼は、学生時代に書いた、短編小説集を、自費出版したほどだもの」
元子が言った。
「えっ。それは、本当か?」
東野圭吾が聞いた。
「ええ。本当よ。これが、そうよ」
そう言って、元子は、222ページの、ソフトカバーの、単行本を、出した。
タイトルは、「女生徒、カチカチ山と十六の短編」、だった。
「これを彼が、書いて、自費出版したのか?」
「ええ。そうよ」
「ちょっと、見せてみろ」
東野圭吾は、単行本を、ひったくるように、取ると、さっそく、読み始めた。
1時間くらいで、全部、読んだ。
「うん。文章がしっかりしているね。ほのぼのとした、優しい小説を書くんだね」
と、東野圭吾は、感想を言った。
「ええ。彼は、小説だけでなく、性格も優しいわ。彼は、自分よりも、他人のことを、優先して、考えてしまう、優しさがあるの。だから、お父さん、が、私と彼との、付き合いに反対したら、身を引くって、さかんに、言っているわ」
と元子が言った。
「ふーん。思いやり、が、あるんだね。じゃあ、ともかく、彼に伝えてくれ。私が、会いたがっているから、ぜひ、家に来てくれと」
と、東野圭吾は、言った。
「わかったわ」
元子は、ニッコリ笑って、頷いた。
東野圭吾は、二階に上がって書斎に入った。
東野圭吾は、一人になって、タバコを、一服した。
東野圭吾も、悩んでいた。
娘には、絶対、小説家志望の男なんかと、結婚させたくなかったからだ。
小説家になるには、並大抵のことでは、なれない。
それは、自分自身の経験からも、痛いほど、わかっている。
小説家なんて、先物取引のような、危険極まりない、ギャンブルだ。
東野圭吾は、小説家志望の人たちには、「そんな危険なことは、やめなさい」、と、言ってきた。
小説家になれるかは、バクチのような、ものだ。
東野圭吾は、娘には、小説家志望の男となど、結婚させたくはなかった。
娘には、絶対に、堅実なサラリーマンと、結婚させる、と、決めていたのである。
しかし、娘の、元子の話を聞いていると、相手の男は、誠実で、優しい、人間であることが、目に見えるようだった。
(きっと、HSC「ハイリー・センシィティブ・パーソン」、だろう)、と思った。
ひどく、内気で、いつも、オドオドしていて、そして、人に優しい。
そんな、姿が想像された。
〇
よく晴れた日曜日の午後、只野六郎が、東野圭吾の家にやってきた。
紺色のスーツにネクタイという出で立ちだった。
彼は、ガチガチに緊張していた。
ピンポーン。
只野は、コチコチに緊張して、チャイムを押した。
「はーい」
と、中から、元子があらわれた。
「あっ。元子さん。こんにちは」
只野は、挨拶した。
「やあ。只野さん。よくいらっしゃって下さったわね。どうぞ、お上がりください」
そう言われて、只野は、東野圭吾の家の、居間に通された。
居間には、大きなソファーが、あった。
「ちょっと、待っててね。父を呼んでくるから」
そう言って、元子は、大きな声で、二階に向かって、
「おとうさーん。只野さん、が、いらっしゃたわよー」
と、叫んだ。
只野は、緊張した。
東野圭吾が、二階から、降りてきた。
「やあ。只野くん。初めまして。君のことは、元子から、聞いているよ」
と、東野圭吾が、言った。
只野は、緊張して、失神しそうになった。
同時に、目の前に、本物の、東野圭吾が、いることを、実感した。
(本物だ。本物の、東野圭吾が、今、目の前にいる)
と、只野は、感激して、心の中で、言った。
心拍数が、ドクン、ドクン、と、速まっていくのが、自分でもわかった。
只野は、あとで、カバンの中に入っている、持ってきた色紙に、サインしてもらおうと思った。
「ひ、ひ、ひ、ひ・・・・東野(ひがしの)圭吾先生」
只野は、殿様に、物申し上げる、臣下のような口調で言った。
直立不動で、全身が、ブルブル震えている。
無理もない。
小説家を目指す、只野にとって、ベストセラー作家の、東野圭吾は、まさに、雲の上の人、神様のような存在なのである。
「只野さん。安心して。大丈夫よ。ショックで意識を失っても、大丈夫なように、あらかじめ、(もしかすると、急病人が出るかもしれません)、って、ここから、一番近くの、大学病院の救急科に、電話しておいたから。病院の受け入れ態勢は、ちゃんと出来ているから・・・」
そう元子が言った。
「ひ、ひ、ひ、ひ・・・・東野(ひがしの)圭吾先生。こ、こ、こ・・・この度は、お目通りをお許し下さり、誠に身に余る光栄と感謝の念を心より申し上げます。あ、あ、あ、あ・・・・有難き幸せに存じ上げます」
東野圭吾の妻の邦子が、紅茶とケーキを持ってきた。
「さあ。只野さん。お座りになって。くつろいで下さい」
と、微笑んで言った。
「お、お、お、お・・・・奥様。お初にお目にかかれて光栄です。お、お、お・・・奥様におかれましては、ご機嫌うるわしく、ますますご健勝のことと大慶に存じ上げます」
と、只野は、顔を茹蛸のように真っ赤にして頭を下げた。
夫人は、クスクス笑った。
「ははは。只野くん。そう、固くならないでくれ。こっちが、参ってしまう」
そう、東野圭吾は、言った。
「そうよ。こんな人、神様でも、仏様でも、何でもない、唯の人間なんだから。わがままで、ヒステリーな野良犬みたいな物なんだから」
と、夫人は、言って、夫人は、夫の頭を、ポンと叩いた。
「ヒステリーな野良犬とは何だ」
と、東野圭吾は、夫人に、食ってかかった。
「だって、あなたは、小説、書いている時は、(おい。メシ持ってこい)、て、怒鳴るじゃない。ミステリーのアイデアが思いつかないと、(あー思いつかん、思いつかん)、と言って、家の中を、野良犬みたいに、徘徊するじゃない」
と、夫人は、言い返した。
東野圭吾の関心が、夫人への、不快に向かったのが、只野の不安感を、少し、和らげた。
「し、失礼いたします」
そう言って、只野は、体を震わせながら、居間のソファーに、東野圭吾と向き合って、座った。
元子も、只野の横に、チョコンと座った。
只野は、何だか、自分が、元子の恋人として、両親に、挨拶しに来たのではなく、大作家に、お目通り、を、願い出て、許された、新参者として来たような気持ちだった。
もし、元子の父親が、サラリーマンとか、他の職業だったら、どんなに社会的地位の高い人でも、こんなことには、ならなかっただろう。
只野は、小説家を目指す、また、殻から出ていない、ヒナのようなものだが。
一方の、東野圭吾は、直木賞、を、はじめ、あらゆる文学賞を獲って、本屋には、「東野圭吾」、のプレートに、ズラリと、1mほども、500作以上の、長編小説、や、短編集、が、ズラリと並び、それらの多くが、テレビドラマ化されたり、映画化されたり、している、日本で、押しも押されもせぬ、大小説家なのである。
大小説家というより。大大説家といった方がいい。
「只野くん。君の出版した、(女生徒、カチカチ山と十六の短編)、読ませてもらったよ」
そう、東野圭吾は言った。
「あ、あ、あ、あ・・・・有難き幸せにつかまつります」
と、只野は、コチコチになって言った。
「ははは。そう、固くならないでくれ。こっちが参ってしまう」
と、東野圭吾は、言った。
「なかなか、面白かったよ」
と、東野圭吾は、言った。
「あ、ありがとうございます」
と言って、只野は、深く頭を下げた。
本当は、(有難き幸せにつかまつります)、言いたかったのだが、あまり、謙譲し過ぎると、東野圭吾先生に、(ははは。そう、固くならないでくれ。こっちが参ってしまう)、と、東野圭吾先生に気を使わせてしまうと思ったので、普通に言った。
しかし、そう普通に言ったことで、只野も、少し、気持ちが落ち着いた。
「只野くん。ざっくばらんに話そうじゃないか。君には、色々と聞きたいことがある。君は、電通を自分の意志で、辞めたそうじゃないか。一体、どうしてだね?」
東野圭吾が、聞いた。
「はい。電通は、毎日、長時間労働でした。土日、も、休日返上で、働いていて、睡眠時間は、3時間でした。自分の時間は、全くありません。それで、これでは、小説が書けない、と思って、辞めました」
只野が言った。
「ふーん。そうか。それで、君は、大学は、どこを出たんだね?電通に入れるほどだから、一流大学なのじゃないのかね?」
東野圭吾が、聞いた。
「はい。東京大学を出ました。学部は法学部です」
と只野が言った。
「東大とは、それは、すごいじゃないか」
東野圭吾の言葉、には畏敬の念が込められていた。
「彼は、ただの東大卒じゃないわ。彼は、法学部を、二番で卒業よ」
只野の隣に座っている元子が言った。
「へー。それは、すごいな」
東野圭吾は、感心して言った。
「じゃあ、君が小説家になろうと思った経緯を話してくれないかね?」
東野圭吾が聞いた。
「はい。僕は、小学校から、東京学芸大学付属小学校、中学校、高校、と、学んでまいりました」
只野は言った。
只野には、もう、殿様に対する、家来のような、緊張感は、ほぐれていた。
「ほー。東京学芸大学付属、といえは、進学校じゃないか」
東野圭吾が、感心して言った。
「え、ええ。回りは、みんな、秀才ばかりです。みな、東大を目指していました。それで、僕も、何も考えることなく、東大に行くのが僕の人生だと思い、勉強だけの学生生活を送ってきました。勉強して成績が良ければ、親に褒められますから、それが嬉しくて、僕は、何も考えず、それが僕の人生なのだと疑いませんでした。そして、運よく、東大に入れました。卒業したら、企業か、官庁に就職するものだと、何も考えず、生きてきました。しかし、大学に入って一安心するや、何か、人生に対する虚しさ、を感じるように、なってきたのです。このまま、敷かれたレールに乗っているだけの人生、将来が見えているような人生、を送ることが、はたして、自分の本当の人生なのかと?そんなことで、悩んでいた、ある時、文芸部で、部誌を出すための、小説募集の、張り紙を、見たのです。それで、小説は、勉強のような、受け身ではない、自分の意志で、書くものなのだからと、小説を書くことに挑戦してみたのです。それで、過去の思い出に、自分なりの、創作を加えて、小説を完成させることが出来たのです。それが、(女生徒、カチカチ山と十六の短編)、の、中に入っている、(忍とボッコ)、や、(砂浜の足跡)、です。小説を書くなんて、生まれて初めての経験でした。しかし、小説を完成した時の喜び、それは、言葉では、言い表せない程のものでした。この世に二つとない、自分の子供を産んだような喜びでした。文芸部員が、面白いね、と言ってくれた時の喜びもそうです。その時から、僕は、小説家になろう、と、決意したのです。毎日が、小説のネタ探し、になりました。そして、何か思いつくと、それを小説に書きました。小説を書くことが、僕の人生の目的になりました。そして、小説の勉強のため、多くの小説家の作品を読みました。そして、それまで、親に勧められて、大学の法律の勉強と並行して、司法試験の勉強もしていましたが、全ての時間を小説を書くことに当てたかったので、司法試験の勉強は、やめました。そのため、財務省に入省することは、出来ませんでした。また、主席卒業も、のがしてしまいました。しかし、電通には、入社できたので、働きながら、小説を、コツコツ書こうと思いました」
と、只野は言った。
「うーん。すごく真面目なんだね」
と、東野圭吾が感心して唸った。
続けて、只野は言った。
「電通に入社できたのは、よかったのですが、あそこは、長時間労働でした。それでも、根を上げる気はありませんでした。もしも、小説を書こう、ということを決意していなかったらならば。しかし、土日も返上で、一日の睡眠時間3時間で、自分の時間が全く持てず、小説を書くことが、出来ないので、小説を書くことが出来ないのであれば、生きている意味がないので、辞表を出して辞めました。それからは、フリーターになって、コンビニで、アルバイトしながら、小説を書いています。そこで、コンビニで知り合った、元子さん、を好きになってしまったのです」
と、只野は言った。
東野圭吾は、(この男は努力の鬼だ)、と、心の中で思った。
「電通を辞める時、君の両親は、反対しなかったね?」
東野圭吾が聞いた。
「はい。もちろん、反対しました。しかし、電通は、長時間労働で、過労死した人がいるほどで、ちょうど今、社会問題になっていますので。死んでは元も子もない。命あってこそ人間は何かが出来る、と言って、認めてくれました。そして、僕の両親は、(こんなことを自分で言うのは、僭越ですが)、僕が、努力家であることを、知っていますから、僕が、小説家になりたい、ことも、認めてくれています」
と、只野は言った。
「でも、どうして、元子と、別れたい、なんて、言いだしたのかね?」
東野圭吾は、その理由は、元子から聞いて、知っていたが、本人の口から、聞いて、確かめたかったのである。
「はい。元子さんは、好きです。今でも好きです。でも、僕は、小説だけでなく、(小説家になるには)的な本も、かなり読んでいますし、また、東野圭吾先生も、さかんに、仰っておられるように、小説家になるには、並大抵のことではなれない、ということは、わかっています。先生は、娘の元子さんには、絶対、小説家志望の男なんかと結婚させたくないと、思っておられます。安定した仕事を持っている人と結婚させて、幸せな家庭を築かせたいと思っておられます。僕も、命ある限り、一生、小説を書こうと思っていますが、小説家として、認められる保証などありません。ですから、元子さんは、好きですが、元子さんを、不幸にしたり、元子さんの、ご両親である、東野圭吾先生を、嘆かせるようなことは、どうしても、出来ないのです。ですから、元子さんは、好きですが、別れようと思ったのです」
と、只野は言った。
東野圭吾は、うーん、と唸った。
「では、ちょっと、残酷な質問になるかも、しれないが、一つ、質問しても、いいかね?」
東野圭吾が聞いた。
「はい。何でも聞いて下さい」
と、只野は言った。
「もし、君が、どうしても、小説家として、認められなくて、僕が君に、小説家になるのはあきらめて、安定した仕事に就きなさい、と言ったら、君はどうするかね?」
東野圭吾が聞いた。
「はい。小説を書くことは、僕が、生きること、そのものです。ですから小説を書くな、と言われたら、僕は死にます。ですから、安定した仕事に就くつもりは、ありません」
只野は、ためらうことなく、キッパリと言った。
東野圭吾は、また、うーん、と唸った。
作家の収入が、いかに、少なく、厳しいものであるかは、あの名文豪の、芥川龍之介でさえ、小説の収入の少なさに、悩んでいた、という事実からも、推測されよう。
小説を書いているだけで、食べていける作家など、日本で、数えるほどしかいないのである。
だから、東野圭吾が、小説家を目指すのなんて、やめなさい、というのは、小説家を目指す者たちへの、思いやりからの、発言なのである。
「東野圭吾先生。お聞きしたいことがあるのですが」
初めて、只野の方から、逆に、東野圭吾に聞いた。
「何だね?」
「今度は、僕が先生に質問したいです。僕は、元子さんを愛しています。しかし、僕は、小説家になる夢は、一生、あきらめません。先生が、そんな僕では、大切な娘さんの元子さんとの、付き合いを認めて下さらない、というのなら、僕は、元子さんとの、付き合いを、あきらめます。しかし、そんな僕でも、元子さんとの、付き合いを認めて下さるのであれば、結婚を前提として、元子さんと、お付き合いしたいと、思っています」
と、只野は言った。
只野も、東野圭吾も、両方、悩んでいた。
東野圭吾は、
(この男は、もの凄い努力家で、実際、小説を書き続けるだろうが、はたして、職業作家になれるだろうか、)、と悩んでいた。
東野圭吾の本心は、できることなら、娘の元子は、堅実な、サラリーマンと結婚させたい、と思っていたのである。
それで。
ちょっと、深刻な話になってしまったので、それを、和らげるための意図もあって、東野圭吾は、話題を変えた。
「ところで、只野くん。今、君は、何か小説を書いているかね?」
東野圭吾が、話題を変えて、聞いた。
「はい。少し前ですが、虚無僧ゾフィー、という小説を書きあげました。天川井太郎賞の文学賞に応募しまして、今、結果を待っています。もうすぐ受賞者の発表です」
只野が言った。
「じゃあ、それを、見せてくれないかね?」
東野圭吾が聞いた。
「はい」
と、言って、只野は、カバンから、USBメモリーを出した。
「この中に、書いた作品が入っております」
そう言って、只野は、東野圭吾に、USBメモリーを渡した。
「そうか。じゃあ、ちょっと、読ませてもらっても、いいかね?」
東野圭吾が聞いた。
「はい」
只野は、コチコチに緊張して言った。
「じゃあ、ちょっと、読ませてもらうよ」
東野圭吾は、そう言って、パソコンの電源を入れて、Windows10を、立ち上げた。
そして、只野から、受け取った、USBメモリーを、パソコンに差し込んだ。
そして、そのUSBメモリー、に、入っている、虚無僧ゾフィー、の、ワード文章を読み出した。
東野圭吾は、書くのも速いが、読むのも速い。
さー、と、目を通して、一気に、300枚の、長編、「虚無僧ゾフィー」、を読んだ。
「うーん」
読み終わって、東野圭吾は、眉間に皺を寄せた。
作品は、無難な出来ではあるが、今一つ、インパクトが無い。
これでは、文学賞に、応募しても、受賞は無理だと思った。
「ストーリー展開は、無難だね。読みやすいよ。しかし、今一つ、斬新な、奇抜さ、が、無いな。これでは、文学賞は、無理だと思うね」
東野圭吾は、率直な感想を言った。
「はい。僕も、それは、自覚してます。僕も、読者受けするために、ちょっと、奇抜な展開にしようかとも、思いましたが、やはり、自分の、思いを素直に表現する方が、いいと思いました」
只野は、言った。
東野圭吾は、内心、ほー、純粋な性格だな、と感心した。
只野という若者の、本心を、東野圭吾は、知りたく思った。
それで。
「只野くん。君も知っていると、思うが、僕は、2014年から、直木賞の選考委員になったからね。虚無僧ゾフィー、を、発表したら、どうかね?僕が、一番、良い作品として、評価してあげるよ」
東野圭吾が言った。
この時である。
畏まっていた、只野は、血相を変えて怒った。
「先生。失礼ですが、そんなことをしたら、僕は、先生を軽蔑します。誰だって、文学賞が欲しいと思って、一生懸命、頑張って、作品を書いています。そんなことは、不正入試と同じです。文学賞は、作品の出来だけによって、決められるべきです。僕は、そんな卑怯な方法で、文学賞を、とりたい、とは、思いません。あくまで、みなと、同じ条件で、フェアープレーで、決めてほしいと、思っています」
只野は、鼻息を荒くして、東野圭吾に食ってかかった。
東野圭吾は、吃驚して、たじろいだ。
只野の性格を知りたくて、軽い気持ちで言った、自分の発言に、只野が、予想以上の反応を示したからだ。
「(渇しても盗泉の水は飲まず)、というのが、僕の信念です」
只野は堂々と言った。
東野圭吾は、気まずくなって、
「ははは。冗談だよ。直木賞の選考委員は、5人いるからね。僕は、その一人に過ぎない。受賞者は、選考委員、全員の多数決で、決めるから、僕一人が、評価しても、それによって決まるということは、ないよ」
と、東野圭吾は、言った。
そう、誤魔化し笑い、したものの、東野圭吾は、「この若者は、純粋で、正しい心を持っている」、と確信した。
その後は、ざっくばらんな、雑談になった。
超売れっ子作家と、無名の小説家志望という違いはあっても、小説を書くという点において価値観を共有していて、実際、小説を書いている者同士、文学論に話が弾んだ。
「あなただって、小説家として認められるまでには、さんざん苦労したじゃない。只野さんが、元子と、巡り合ったのも、何かの縁だわ」
と、東野圭吾の妻の邦子が言った。
もう、夕方になっていた。
「それでは。先生。今日は、先生の御執筆の時間を割いて下さいまして、私と会って下さいまして、どうもありがとうございました。今日は、これで失礼いたします」
と、只野は言った。
「只野さん。また、いらっしゃって下さいね」
と、東野圭吾の妻の邦子が言った。
「それでは、失礼いたします」
そう言って、只野は、立ち上がった。
そして、東野圭吾に、恭しく頭を深く下げて、帰っていった。
只野が、いなくなったので、あとには、いつも通り、父と母と娘の三人になった。
「あーあ。もし、彼が文学に目覚めていなかったら、司法試験も学生時代中に通って、東大法学部を主席で卒業して、今頃は、財務省の官僚になっていただろうにな。文学に目覚めてしまったために、フリーターの小説家志望とは・・・・天と地との差だ」
東野圭吾はため息をついた。
「元子。お前は、どうして彼を好きになったんだ?」
東野圭吾が、娘の元子に聞いた。
「彼は、純粋でしょ。そして、何事にも一途でしょ。誠実な性格でしょ。そういう彼の性格のすべてが好き」
娘の元子は、微笑んで答えた。
〇
その日から、東野圭吾の悩みが始まった。
只野という若者は、性格は、誠実だ。
自分が決めたことをやり抜く、根性を持っている。
しかし、小説家として、認められるのは、並大抵のことでは、なれない。
それは、自分が、経験して一番よく知っている。
只野という若者は、おそらく一生、小説を書き続けるだろう。
その根性は素晴らしい。
しかし、かえって、その根性が、やっかいなのだ。
根性の無いヤツなら、文学賞が、なかなか、とれないと、自分には、才能が無いと、小説家をあきらめてくれる可能性がある。
しかし、あの、只野という若者は、文学賞だの、小説家としての、収入だの名声だの、ということを、度外視して、小説を書いている。
彼にとっては、小説を書くことが、生きること、そのものなのだ。
だから、彼は、文学賞を、とれなくても、小説家として、認められなくても、小説を書いても、収入が全く入らなくても、一生、小説を書き続けるだろう。
小説を書くことが好きで好きで、仕方がないのだから。
これは、やっかいだ。
出来ることなら、娘には、自分の夢を追い続ける人間より、安定した収入で、生活に困らない、幸せな人生を送らせてやりたい。
只野と、話していた時には、只野の、やり抜く根性に、圧倒されていたが、別れて、冷静に考えているうちに、やはり、娘には、堅実な仕事に就いている男と結婚させたい、という思いが、募ってきた。
しかし、只野の、人間としての、誠実さ、にも、東野圭吾は、一目、置いていた。
たとえ、堅実な仕事をしている男でも、誠実さ、が、なければ、これもまた、結婚しても、不幸になるだけだ。
不誠実な男と結婚しても、結局は、離婚するだけだ。
日本での、離婚率が高いのが、それを証明している。
一番いいのは、只野の仕事が、サラリーマンで、あってくれたら、彼は、何事にでも、打ち込む性格だから、会社でも、出世して、まず、幸せな家庭を築けただろうに。
あーあ。なかなか、物事は、いいことだけ、ということが、無いものだな。
と、東野圭吾は、タバコをくゆらせて、宙を見ながら、考えた。
〇
ある時、東野圭吾は、いきつけの、居酒屋に行った。
スナックのカウンターには、自分と同じ歳くらいの、サラリーマンが、二人、並んで、座っていた。
手前は、太った男で、その隣の、奥の方にいるのは、痩せた男だった。
東野圭吾は、カウンターに、座って、ウイスキーを注文した。
カウンターに座って、ウイスキーを飲んでいると、隣に座っている二人の男の話し声が聞こえてきた。
「オレの知り合いに、電通の課長がいてね。この前、彼が、面白いことを、言ったんだ」
太った男が言った。
「どんなことを言ったんだ?」
痩せた男が聞いた。
「東大法学部を、次席で卒業して、電通に入社したヤツがいるんだ。只野六郎とかいう名前だそうだ」
太った男が言った。
「そいつが、どうしたんだ?」
痩せた男が聞いた。
「聞いて驚くなよ。何でも、そいつは、小説家になりたいから、会社を辞めます、と言って、辞めたらしいんだ。バカなヤツだよな」
あっははは、と、痩せた男は、笑った。
「そうだな。小説家になりたい、なんて、子供の夢のようなことを、いい大人になっても、思っているなんて」
痩せた男が相槌を打った。
「そいつは、東京学芸大学付属の、小学校、中学校、高校、そして、東大と、勉強だけしか、していないから、世間のことが、まるで、わからないんだよ。小説家なんかで、食っていけるはずないのにな。温室育ち、は、そんなことも、わからないんだよな」
太った男が言った。
「それと。仮に、小説家になれたとしても、小説なんて、くだらないよな。あんなもの、実用的には、何の役にも立たないからな。読むなら、もっと、実用の役に立つ本を読むべきだな。今の世の中、大変な時代で、真面目に取り組むべき、政治、経済、社会問題が山積しているというのにな。そういう本をこそ、読むべきだよな」
痩せた男が言った。
「そうだな。小説を読むヤツもバカだし、小説を書くヤツもバカだな」
太った男が言った。
「そうだな」
痩せた男が言った。
「そもそも。小説家なんて、ちょこちょこっと、好きなことを書いて、それで、金を貰おうなんて、考えてるんだから厚かましい限りだな」
太った男が言った。
「ちょこちょこっと好きなこと?」
黙って聞いていた東野圭吾の頭の中で、何かが弾けた。
人に認めらる、とか、認められないとか、そんなことは、度外視して、今も、おそらく、夜、寝るまで、一生懸命、小説を書いている、そして、一生懸命、生きている、只野の姿が、頭に浮かんだ。
東野圭吾は立ち上がった。
「もういっぺん言ってみろ」
「何だよ。何か文句あるのか?」
男が睨み返してくる。
「小説家が、どれだけ苦労しているかも、知らんくせに、勝手なことを言うな」
「じゃあ、あんたは、知っているのか?」
「おたくよりは、わかっている」
「どうわかっているんだ。言ってみろよ」
「彼らは心血を注いで、一つの作品を書きあげているんだ」
「ふん、何だよ。それ。どうでもいいよ。関係ないよ」
男は、横を向き、首筋を掻いた。
「馬鹿を相手にしても仕方ないや」
圭吾の頭で何かが、ぷつんと切れた。
ジョッキを手にし、男の顔に、ビールをぶっかけた。
「何をしやがる?」
男のパンチが飛んできた。
・・・・・・・
東野圭吾が警察署を出たのは、十時を過ぎた頃だった。
たっぷり油を絞られた後、妻の邦子に迎えに来てもらったのだ。
「いい歳して何やってるのよ」
それが邦子の第一声だった。
すまん、と答えるしかなかった。
自分でも、ずいぶんと浅はかなことをしたとは思う。
喧嘩をしたのなんて何年ぶりだろうと振り返った。
人を殴ったのは、高校以来で、殴られたのは大学生以来だ。
指の付け根が痛む。顔面の半分が強張っている。
明日の朝になったら腫れるだろうな、とぼんやり考えた。
しかし帰りのタクシーで、邦子は責めるようなことは何も言わなかった。
顔の傷を心配する言葉をかけてきただけだ。
喧嘩の原因が何なのか、警察で話をきかされたからかもしれない。
自宅に戻ると、すぐに着替えてベッドにもぐりこんだ。
娘の元子は、まだ帰っていないようだ。
いつもより遅い。
邦子が氷水で絞ったタオルを持ってきてくれたので、横になったまま、殴られたところを冷やした。
横になって、冷やしながら、東野圭吾は、考えるともなく、ぼんやり考えていた。
娘は幸せになれないかも、しれない。
しかし、それでも、いいじゃないか。
人間の幸せって何だ。
経済的に、不自由しないことか?
経済的に不自由しなければ、それで人間は、幸せ、と言えるのか?
たとえ、安定した、生活が送れなくても、人間の幸せとは、本当に自分のやりたいこと、をやる。
そして、本当に、愛する人間と結婚すること、こそ、本当の幸せなんじゃないか?
たとえ、失敗しても、それでいいじゃないか。
失敗した人生は、それは客観的に、不幸と、他人に評価されるだけで、本人は、不幸と思っていないかも、しれないじゃないか。
たとえ失敗しても、命がけで、生きて、失敗したのなら、他人が、どう言おうと、本人は、「やるべきことは、全力でやった」、という満足感を持って、生きられるのではないのか?
人間の幸せ、というのは、結果ではなく、真剣に生きようとする、意志だ。
それを、持たずに、生活だけ、安定していても、そんなのは、「本当に生きた」、などとは、言えないのじゃないか?
そんなの、偽の人生だ。
そんなことを思っていると、間もなく、階下で物音が聞こえた。
元子が帰ってきたらしい。
階段を上がる足音が聞こえてきた。
元子が自分の部屋に入るのだろうと思っていたら、突然ドアが開いた。
おっ、と東野圭吾は声を漏らしていた。
「お父さん・・・・大丈夫?」
入り口に立ち、元子が心配そうな顔で訊いた。
「おう。別にどうってことない」
タオルを顔に当てたままで答えた。
「どうってことないようには見えないんだけど」
「大丈夫だ」
「そう?でもびっくりした。お父さんが喧嘩だなんて」
「お母さんから聞いたのか?」
「うん。喧嘩の原因も」
「そうか・・・・あっ、そうだ。今日、あれがあったんじゃないのか。天川井太郎賞の発表」
「あったよ」
元子は、すっと息を吸い込んだ。
「だめだった」
「あっ、そうなのか。それは残念だったな」
声に落胆の響きを含ませないよう気をつけて言った。
元子は頭を振った。
「全然、残念じゃない。彼も、あたしも、少しもがっかりしてないもん。目標は、もっと高いところにある。今夜だって、残念会なんかしてないよ。彼は、ますます、ファイトが沸いてきた、と言って、今日も、黙々と小説を書いていたよ」
東野圭吾は頷いた。
「そうか」
「じゃあ、おやすみなさい」
「うん。ああ、元子」
呼び止めた。
振り返った娘に向かって、静かに言った。
「がんばれよ。しっかりと彼を支えてやりなさい」
元子は大きく胸を上下させた後、うん、と言って、出ていった。
平成30年11月24日(土)擱筆
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