喫茶 エス・コート

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 都会の真ん中に、小さな森がある。  今まで気にしてなかったけど、ずっと前からそこにあった。  緑の小路を進む。  重厚感と可愛さが同居する、ヨーロッパ風の建物が見えて来た。  厚い扉を開ける。  高く響くベルの音。  漂うコーヒーの香り。 「おかえりなさい」  低く落ち着いた声が私を迎える。  カウンターの向こう側から微笑む彼。  年齢は知らないけど、たぶん50代。  お父さんより歳上だ。  でも全然『人生にくたびれた感』が無いと言うか。  渋いけど、妙に色気がある。 「ただいま」  外は酷い暑さだ。  近いとはいえ学校から歩いて来た私は汗だくで。  何だか恥ずかしくなる。  そんな私に彼は、冷たい水の入った透明なグラスを差し出した。  お礼を言って受け取る。  渇いた喉を潤す水は、微かにレモンの味がした。 ◆ 「……痛い」  その日は朝から小雨が降っていた。  散り始めた桜の花びらがアスファルトに貼り付いてる。  早朝に腹痛で目が覚めて。  それでも学校には行かなくては。新学年になったばかりだし。  という義務感で誰も居ない家を出たものの、あまりに具合が悪くて途中の道端に蹲った。  何人か通りかかったけど誰も見向きもしない。  雨だし朝だし忙しいよね、みんな。  都会の冷たさに泣きそうになる。 「どうされましたか」  声を掛けられて見上げた先にはオジさんが居た。  清潔感のある白いワイシャツに黒のスラックス。背が高くてスラリとしている。  手には大きな傘とゴミ袋。近所の人かな。 「顔色が良くないですね。ちょっと待っていてください」  そう言って彼は私の傍を離れる。  道を渡った向こう側のゴミ集積所にゴミ袋を置いて、丁寧にカラス避けネットを掛けて、また私のところに戻って来てくれた。  彼は傘を畳んで座り、私と同じ目線の高さで聞く。 「歩けますか?」  この人……役者さん?ってくらい整った顔立ち。  品があって優しい目元と口元。  白髪混じりの髪はオールバックにしてて。  オジさんだけどカッコいい。 「無理そうでしょうか」 「あ……えっと……」 「失礼します」  答えに迷う私の身体を、彼は軽々と抱き上げた。  私は小柄な方だけど軽くはない……と思う。  オジさんなのに力持ちなんだ。凄い。 「ご自宅はどちらでしょう」 「え……自宅……?」 「お送りします」  待って。お姫様抱っこで家に帰るの私。  結構遠いんですけど。 「それとも学校の方が良いでしょうか」  それは、もっと困る。  全校生徒がザワつく。 「だ……大丈夫です!ありがとうございます!平気です!一人で歩けます!」  そう叫んだものの。  お腹が痛すぎて気持ち悪くなって来た。  黙り込む私に彼も愛想を尽かすだろう。  それを期待したのに。 「もし宜しければ……うちの店で休んでください」  彼は優しく微笑んで、有無を言わさず半ば強引に、私を連れ去った。 ◆  雨は上がっていた。  通学路から少し裏手に入った住宅街。  そこだけ異世界のように木が生い茂ってる。  朝なのに薄暗くて少し怖い。  どこに連れて行かれるのか不安になる。  小路を抜けると急に視界が開けた。  そこには童話に出て来るような、小さくて可愛らしい洋館が建っていた。  外壁はレンガかな。赤茶色じゃなくて、薄い茶色の。  ミルクチョコレートみたいな扉の前に私を降ろした彼は、慣れた手つきで鍵を開ける。  それから扉を開けて、私に先に入るよう促した。  何か、全てが紳士的と言うか。  女性の扱いに慣れてると言うか。  戸惑いながら室内に入るとコーヒーの香りがした。  カウンターに椅子が5脚。テーブル席が5つ。  もしかしてカフェかな。  カフェと言うか喫茶店?  焦げ茶色がベースの少しレトロなインテリアだ。 「どこでもお好きな席へどうぞ」  店員さんみたいに彼が言う。  みたい、じゃなくて本当に店員さんなんだろうな。  私は庭が見えるサンルームのテーブル席を選んだ。  彼はカウンターの裏の方から膝掛けを持って来て私に手渡す。 「冷えは身体によくありませんから。使ってください」 「……ありがとうございます」  彼の左手の薬指にはシルバーリング。  こんなカッコよくて気が利く旦那さん、羨ましい。  彼はまたカウンターに戻った。  指輪を外して丁寧に手を洗ってから、何か作業をしてる。  開店準備かな。  物凄く絵になる人だな、って思った。  容姿だけじゃなくて仕草も綺麗なんだって気づく。  何と言うか、指先まで隙が無い。  彼の姿をぼんやり眺めていたら奥から人が出て来た。  その人もオジさんだった。眼鏡のオジさんだ。  私を助けてくれた彼とはタイプが違って、ワイルド系と言うか、無造作な髪と無精髭のせいか少し悪そうな雰囲気。 「何してんだ及川(おいかわ)」  眼鏡のオジさんが背の高い彼に声を掛けた。  及川さん、って言うんだ。彼。 「見ての通り。牛乳を温めている」 「野良猫にやんのか?」 「猫は猫舌だから温める必要は無いだろう」 「それもそうだ。じゃあ俺の為か」 「生憎だが、お前の為に使う労力は持ち合わせていない」 「ケチケチすんなよ。減るもんじゃねーし」 「減る。お前に対しては減る」  2人は、どういう関係なんだろうか。  会話を聞いてると仲悪そう。 「あっそ。じゃあ誰のだよ」 「彼女の為だ」 「彼女?」 「女の子を、拾った」 「はぁ!?またかよ!」  また? 「何で及川の前には女の子が落ちてんだ!?俺は一度も遭遇したこと無いんだけどよ!」 「俺に聞かれてもな」  眼鏡のオジさんが私を見る。  思わず目を逸らした。 「……しかも今回は女子高生か!?若くて可愛いなオイ!」  ん?もしかして私、褒められてる?  友達からは可愛いって言われるけど、お世辞だと思ってた。 「体調が悪そうだ。良くなるまで休ませてやって欲しい」 「……別に構わねーけどよ」  何だか申し訳なくて俯く私に歩み寄った眼鏡のオジさんは、コースターとペンを差し出した。 「その制服、そこの私立高校のだよな。遅刻するって電話するから学年とクラスと名前、書け」  言い方は乱暴だけど、この人も優しい。  そして顔がいい。  眉は凛々しいけど目は意外と大きくて。  ……もしかして伊達眼鏡?  無精髭が無ければ、そんなにオジさんに見えないかも。  カッコよくて優しくて。  何なの、このオジさんたち。  シンプルなデザインの四角いコースター。  下の方に濃い赤色のインクで【喫茶 エス・コート】と書かれていた。  私は余白に自分のクラスと名前を書いて、眼鏡のオジさんに手渡す。 「えーと、今井凛(いまいりん)。2年B組な。了解。あ、親にも連絡するか?」 「……いえ。両親は海外なので」 「他に家族は」 「いません」 「一人暮らししてんのか?」 「はい」 「へぇ。大変だな。飯は。自炊してんの」 「……まあ、一応」  料理は得意じゃないけど。 「(やなぎ)。彼女は具合が悪いんだ。あまり絡むな」 「気を紛らわす為だよ」 「さっさと学校に電話して来い」 「はいはい」  眼鏡のオジさん……柳さんはコースターを手にカウンターの奥に入る。  及川さんは大きなマグカップに入ったホットミルクを私の前に置いた。 「どうぞ」 「あ……ありがとうございます」 「熱いですから、ゆっくり飲んでください」  猫舌の私は少し冷めるのを待つことにした。  なかなか口を付けない私を、及川さんは困った顔で見てる。 「もしかして、牛乳は苦手でしたか?」 「いえ、好きです。けど、熱いのが苦手で」 「そうでしたか。すみません」 「あ、いえ、及川さんは悪くないです」  思わず名前を口にしたら、彼は少し驚いた顔をした。  私は慌てて説明する。 「……すみません。さっきの会話、聞こえてて」 「あ……聞こえていましたか。お恥ずかしい」 「いつも女の子を拾ってるんですね」 「……まあ、そういうこともあります」 「奥さん、ヤキモチ焼かないんですか?」  何気なく言っただけなのに。  及川さんは一瞬、とても悲しそうな顔をした。  触れて欲しくないところに触れてしまったのだろう。  気まずくて俯く。  初対面なのに、何でそんなことを言ってしまったのか。  自分でも分からなかった。 「妻は……居ません」  彼の言葉に私は顔を上げる。 「……え?でも、指輪……」 「あぁ……あれは御守りと言うか……」 「御守り?」 「大切な人との思い出の品で」 「大切な人……」  そう話す及川さんの目は、何処か遠くを見ているようで。  その人はもう、この世に居ないのだと。  聞かなくても分かった。 「御守りっつーか、魔除けだろ」  いつの間にか戻って来てた柳さんが会話に混ざる。 「魔除け、ですか?」 「御守りなら右手の薬指でもいいだろ」  ……確かに。 「コイツ憎たらしいくらいモテるから。なるべく女が寄って来ないように既婚者のフリしてんだよ。腹立つ」  なるほど。納得。 「余計なことを言うな」 「事実だろ。この女たらし」  そりゃ惚れるよね。及川さん、理想の紳士だもん。  店を訪れるのは彼目当ての女性客が多いって、柳さんは面白くなさそうに言う。  柳さんだって素敵だけど。 「凛ちゃんは引っかかんないよな?」 「え?」 「騙されんなよ。及川、こう見えて変態だから。若い女の子大好きだから」 「……そうなんですか?」 「今まで拾った女の子、みんな食ってんだよコイツ」  まさか……ね。冗談だよね。  恐る恐る及川さんの顔を見る。  彼は肯定も否定もせず、ただ困ったように笑ってた。  少し温くなったホットミルクを飲む度に、冷え切った身体に熱が戻る。  お腹の痛みも和らいだ気がする。 「ごちそうさまでした」  私はカウンターで開店準備をしている及川さんに空のカップを手渡した。  及川さんは笑顔で受け取って言う。 「体調が良くなったら学校まで送りますよ」 「大丈夫です。1人で行けます」 「それならいいのですが」 「ありがとうございました。あの、お幾らですか」 「何がですか?」 「ホットミルクの……」 「お金は要りませんよ」 「でも……」  食い下がる私に、及川さんは洗い物をする手を止めた。 「どうしてもと言うなら。身体で払ってください」 「……へ?」  どういう意味?  まさか本当に……そういうことするの?  無意識に後退りすると、及川さんは焦った様子で否定した。 「あぁ、違います。そういう意味ではなくて」 「……違うんですか」 「実は人手が足りなくて困っていまして。放課後、少しだけ洗い物を手伝って頂けないでしょうか。もちろん、お給料はきちんと柳に支払わせます」 「柳さんに?」 「柳が経営者で、私は雇われの身なんですよ」  そうなんだ。対等に話してるから、一緒に経営してると思った。 「わかりました」 「体調が良ければでいいですからね」  及川さんは扉を開けて、私を送り出す。  緑のトンネルを抜けたら日常が待っていた。  夢でも見たんじゃないかって思う。  この世にあんなカッコいいオジさんが2人も揃って居る訳が無い。  もう二度と会えない気がする。  学校に着いたのは2時間目が終わる頃だった。  職員室で担任の先生を見つけたので挨拶をした。  それから、いつも通りに授業に出席する。  時間ばかりが気になった。  早く放課後になれ。  彼らに会いたい。  待ちに待った放課後。  私は足早に学校を出た。  慌てることは無いと分かってる。  でも。夢だったかもしれないから。  現実だと確かめたくて、緑の小路を進む。  そこには朝と同じ建物がきちんと存在していた。  ランチタイムが終わる時間だから帰って行くお客さんたちとすれ違う。  平日の昼間だからかもしれないけど、見事に女性ばかりだ。
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