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1.
ぼくはその日、自分が悪いことをしている自覚があった。
だから、低い声で「おい、おまえ」って声をかけられたとき、本当に、心臓が止まってしまうかと思ったんだ。
ふり向くと、背の高い男の人が、タバコをふかしながら近づいてくるところだった。
ノーネクタイの、第三ボタンまで開いたワイシャツ。グレーのロングパーカー。足元は、オレンジ色のクロックス。
──怖い。
それが、その人の第一印象だった。
「何してんだ、こんなところで」
「……え、えっと……」
「おまえ、小学生だろ。大学に、なんか用事でもあるのか?」
「…………」
そう。ここは国立大学──北王大学のキャンパスの中。
この季節は一面黄色に染まるイチョウ並木が有名で、明らかに学生じゃない老夫婦とか、キャリーケースを引いた外国人なんかも歩いているけど。
小学五年生のぼくが、平日の昼間にウロウロするような場所じゃないってことは、よく分かっていた。
黙り込んだぼくを見下ろして、その人はタバコの煙と一緒に、ふーっと息を吐いた。
「せんせー、構内は歩きタバコ禁止ですよー!」
「何、その子~! まさか先生の子ども? 独身なのに?」
女の人たちの集団が声をかけてきて、何がおもしろいのか、キャハハハハ! と笑いながら通り過ぎていった。
「うるせーな。おまえらはさっさとレポート出せよ!」
男の人は舌打ちしながら、意外にも素直に、携帯灰皿にタバコをねじこんだ。
「……ったく、最近は喫煙者の肩身が狭いったらない」
ぼくもタバコは臭くて苦手だし、正直近くで吸うのはやめてほしい……と思っていたけど、それよりも気になったことがあった。
「先生……なんですか? あなたが?」
ぼくの質問が予想外だったのか、ちょっと驚いた顔をしてから、その人はうなずいた。
「まあな。一応、理学博士だ」
「りがくはくし……」
「ハカセってことだよ。分かるだろ、発明家みたいなハカセ、よく漫画にでてくるじゃん」
「……ハカセって……白衣とか着てるんじゃ、ないんですね」
「あっはっは! そりゃそうだ」
その人は声を上げて笑った。
笑うと口が大きく開いて、かなり子どもっぽい。
白髪もないし、若そうに見えるけど。大人の男の人の年齢は、見た目じゃよく分からなかった。
冷たい風が、地面に落ちたイチョウの葉っぱを巻きあげていく。こんな季節なのに薄着だったぼくは、ぶるりと身震いしてしまった。
そんなぼくを見下ろして、その人はもう一度、長く息を吐いた。
「……おまえ、宇宙に興味はあるか?」
「え……宇宙?」
突然出てきたスケールの大きな単語に、思わずひるんだ。
宇宙って。
つまり、この地球の外の──広い広い、たくさんの星がある空間。
興味があるか……なんて、考えたこともないくらい、遠い世界。それがぼくにとっての『宇宙』だった。
「ちょっと……分かりません。宇宙なんて、そんな遠いところ」
ぼくの答えに、その人はくちびるの端を持ちあげて、ニヤリと怪しい笑顔を作った。
「ふーん、そりゃいい。ヒマならちょっとつきあえ。宇宙について、教えてやるから」
「で、でも……知らない人についていくのは、よくないって……」
「おまえ学校サボってんだろ。いまさら何言ってんだよ」
そう言って、その人は歩きだした。
──バレてた。
それはそうか。この時間にここにいるってことは、そういうことだもん──。
その人は、クロックスをジャリジャリと引きずり気味に歩いていく。
どうしよう……と一瞬迷ったけれど、ぼくはついていくことにした。
『いまさら何言ってんだよ』って言葉が、もっともだと思ったから。
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