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3.
それからハカセは、タクシーを呼び、ぼくを小さなアパートに連れていった。
極端に物の少ないその部屋は、どうやらハカセが住んでいる部屋らしかった。
熱いお風呂に入れてもらい、サイズは全然合わないけど、着替えを貸してもらった。
床に座っていると、「うち、何もないんだよ」と言いながら、ハカセはマグカップを差し出してきた。
中に入っていたのはただのお湯で、ぼくは少しだけ笑った。
「……本当に、何もないんだね」
「寝るだけの部屋だからなあ。大学にこもりっきりなんだよ」
そう言ってから、ハカセはちらりと、スマートフォンの画面を確認する素振りを見せた。
そこに表示されている時刻は、とっくに深夜を回っている。
──帰れ、と言われるか。寝ろ、と言われるか。
身構えていると、ハカセはぼくの両肩に手を置いた。
「少年。俺とおまえは、一旦ここでお別れだ」
「…………え」
何を言われたのか、よく分からなかった。
「いいか、よく聞け。難しいことを言うが、大事なことだ。よく覚えておけ」
ハカセはぼくの目をじっと見て、一言一言、区切るように言った。
「おまえを助けてくれる大人は、おまえが想像しているよりも、たくさんいる。絶対にだ」
ドアの外が、なんだか騒がしい。
ハカセの言葉を聞きながら、ぼくは胸のざわめきを抑えられなかった。
「勉強をしろ。知識を蓄えろ。学校で教えてもらえるような勉強だけじゃないぞ。社会の仕組み、人とのコミュニケーション……とにかく学び、調べ、考えろ。もし何かが邪魔をして、学ぶこと自体が困難になっても。どうすればいいかを、自分自身で考えるんだ。考える力というのは、何よりも武器になる。考えれば、おまえにできないことはない」
「ハカセ」
なんでそんなこと言うの、と聞こうとした瞬間、インターホンのベルが鳴った。
ハカセが立ちあがってドアを開けると、向こうには何人かの大人が立っていた。
その人たちは部屋に上がり込むと、ハカセと難しい話をしたり、ぼくのほっぺのケガを確認したりした。
何かの書類にハカセがボールペンを走らせている間、その大人たちのうちの一人が、ぼくの手を取った。
「もう、大丈夫だからね」
そう言ってほほ笑まれても、何が大丈夫なのか、ぼくにはさっぱり分からなかった。
「通報ありがとうございました。この子の家は、児童相談所も対応していて、なんども家庭訪問をしていたのですが。全く応じてもらえず……ようやく保護できます」
「……いえ。よろしくお願いします」
ハカセが丁寧にしゃべっているのを、初めて聞いた。
ぼう然としているうちに、ぼくは手を引かれて、部屋から連れ出されそうになった。
「嫌だ……ハカセ! どういうこと⁉」
ぼくは慌てた。
そのときになってようやく、この場で何が起きているのかを理解した。
「ぼく、ここにいたい! ハカセの話が聞きたい! ぼくは、それだけでよかったのに!」
「ごめん……ごめんな……」
泣きそうな顔で、ハカセは謝りつづけた。
「ハカセ……」
ああ。ハカセは、本気なんだ。
本気で、ぼくから離れようとしている。
何を言ってもムダだと察して、ぼくは抵抗するのをやめた。
「……さよなら、ハカセ」
ハカセはこんなときなのに、やっぱり何も言わなかった。
ぼくは大人に手を引かれ、そのまま部屋を出た。
離れたところにパトカーが停まっていて、ぼくはその後部座席に座らされた。
他の人たちも中に乗り込み、運転席の人が、エンジンをかけた瞬間。
「少年!」
車の外から声がして、ぼくはハッと顔を上げた。
運転席の人が驚いた顔をしてから、仕方なさそうに、ぼくの横の窓を開けてくれた。
「ハカセ」
「いいか、少年。いつか──」
ハカセはそこで言葉を切ると、何かをガマンするみたいに、ぐっとくちびるをかんだ。
「──いつか。自分の力で、大学まで来い」
「大学……」
「ああ。俺のいるところまで来い。そしたら……俺の力じゃ、宇宙は無理だが……この地球上で、宇宙に一番近い場所に、連れていってやる。約束しよう」
ハカセはそう言って、小さな紙きれを渡してきた。
破られたメモ用紙には、『天文光学研究室』と書いてあった。
「元気でな、少年」
「ハカセも……元気でね」
ぼくがそういうと、ハカセは顔をゆがめて、ボロボロと涙をこぼした。
ハカセは慌てたように顔をそむけると、何度も何度も、涙をぬぐっていた。
──大人の男性がそんなふうに泣いているのを、僕は後にも先にも、あの時しか見たことがない。
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