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5.
それからも僕は、大学で勉強に打ち込んだ。
どうしても気になって、工学部棟近くの喫煙所の様子を伺ったこともあったが、そこにハカセが現れることはなかった。
さっさと研究室へ会いにいってもよかったのだが、僕はそれをしなかった。
なんとなく、研究室に配属される日まで、行くべきではないと思っていたのだ。
何人もの同期が留年や休学で減っていく中。
僕は四年生になり、希望通りの研究室への配属が決まった。
そして迎えた、配属初日。
朝からろくに食べられず、吐きそうなくらい緊張しながら、たくさんの研究室が並ぶ古くて暗い廊下を歩いた。
──ここだ。
ドアプレートの名前と、ずっと大事に持っていたメモの文字を、何度も見比べる。
『天文光学研究室』
ノックしようとした手が震える。
ついに、ついに、僕はここまで来た。
しかし、僕が扉をノックすることはなかった。
中から、ガチャリと扉が開けられたのだ。
出てきた若い女性は、僕を見てギョッとしたようにあとずさった。
「な、何か御用ですか?」
しまった。ハカセの名前を、僕は知らない。
「すみません、あの……会いたい人がいて」
「はあ……誰でしょうか。取り次ぎましょうか?」
「えっと……タバコ吸ってる人……確か、理学博士で……あ、というか僕、今日からここに……」
しどろもどろになる僕を、その女性は不審そうに見上げてくる。
「タバコ? タバコ吸う人は、うちの研究室にはいないはずだけど……」
──耳を疑った。
研究室を間違えた? ウソをつかれた? 別の大学に異動した?
それとも、まさか、亡くなってしまったとか──。
「どうした?」
「ああ、教授。ちょっと、よく分からないのですが……うちの研究室、タバコ吸ってる子いませんよね? 喫煙者を探してるみたいですけど」
部屋の奥から、背の高い中年の男性が歩いてきた。
ノーネクタイの、第三ボタンまで開いたワイシャツ。足元は、水色のクロックス。
はおっている高そうなジャケットが、なんだか不釣り合いだ。
髪には、白髪が混ざり始めている。顔のシワも増えた。
「………………」
僕は、言葉が出なかった。
用意していた挨拶は全部、頭から吹っ飛んでいた。
「喫煙者? まあ俺、昔は吸ってたけどなあ……」
訝しげに近づいてきたその教授は、僕を見て息を飲んだ。
そしてすぐに、唇の端を持ちあげて、ニヤリと笑った。
「頑張ったな。少年」
笑顔で再会したかったのに、そう呼ばれた瞬間、涙が溢れた。
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