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6.
僕はそれから、修士課程──さらに博士課程に進んだ。
そしていま、成田空港発、ホノルル行の飛行機に乗っている。
「最高だよな。大学の金でハワイに行けるんだから」
僕の隣の席で赤ワインを飲みながら、ハカセはくっくっと笑う。
「そんなこと、言わない方がいいですよ。研究のために行くんですから」
「おまえは真面目だなあ」
このあとは飛行機を乗り換えて、ハワイ島へ向かう。
目的地はすばる望遠鏡──日本の国立天文台が運用する、世界最大級の光学赤外線望遠鏡だ。
そこに、僕とハカセで開発した観測機構を搭載してもらうのだ。
ハワイ島に着いてからも、望遠鏡への道のりは遠かった。
舗装もされていない、ガタガタの砂利道。大きなタイヤのバギーに乗って、標高四千メートルを超えるマウナ・ケア山頂を目指す。
「く~っ! やっと着いたな!」
バギーから降りて、ハカセは大きく伸びをした。日本を出てから、もう丸一日以上が過ぎている。僕も体がカチコチだ。
恐る恐るバギーから足を降ろし、その乾いた地面を踏みしめる。
顔を上げると、空が澄み渡っていた。
空気が薄く、冷たい。その地が、いままで僕が見てきたどの場所とも、全然違うことを実感した。
しばらくゆっくりと歩いて高所に体を慣らし、僕とハカセは、すばる望遠鏡での実験作業に勤しんだ。
時間はあっという間に過ぎ去り、その日は夜になった。
夕食には、麓のスーパーマーケットで買っておいた弁当を食べた。特に美味くも不味くもなく、明日は持ってきたカップラーメンを食べよう、とぼんやり思った。
夕食後、これからの実験計画を見直していたとき。
突然、ハカセは言った。
「あの日約束してから、十五年も経っちまったなあ」
僕たちが研究室で再会してから、その話題に触れたのは初めてだった。
実はもう、ハカセはそんなこと忘れてしまっているのではと思っていた。
「…………え」
「外に出よう」
ハカセに連れられて、僕は望遠鏡施設の外に出た。
──寒い。
ライトダウンを着こんでいるのに。
僕は震えながら、ハカセの後に続いた。
「さあ。見てみろ、少年」
もう少年なんて歳ではないのに、ハカセはそう言った。
「……何を……」
何を見ろと言われたのか、聞き返すまでもなかった。
目の前に広がる星空は、遮るものなど何もなく、ただひたすらに美しかった。
自分が星の海に飛びこんだと錯覚するくらいに、その夜空は、またたく星で溢れていた。
──宇宙だ。
手を伸ばせば届きそうな距離に、宇宙がある。
ここが。
ここが、宇宙に一番、近い場所──。
「……悪かったな」
しばらくしてから、ポツリと小さな声で、ハカセは言った。
「俺は、おまえの人生を縛ってしまった。おまえには、もっとたくさんの選択肢があったはずなのに。本気になれば、実際に宇宙に行くことだってできたはずなのに」
隣を見ると、ハカセは星空を見上げていた。
その表情は、暗くてよく分からなかった。
「そんな。僕は……感謝しています。あなたのおかげで、僕は……」
声が震えてしまって、上手くしゃべれなかった。
もっと伝えるべきことがあるはずなのに、胸の奥から熱い物がこみあげてきて、言葉にならなかった。
目から溢れた涙はすぐに冷たくなって、僕の頬を濡らした。
「……感謝しているのは俺の方だ」
淡々とした声で、ハカセは続けた。
「あの頃……俺はもう、助教を辞めようと思ってた。だが、あそこにおまえが現れて……今日も少年が来るかもしれねーな、とか思って、なんとか辞めずに続けてたんだ」
「…………」
「あと、おまえに『元気で』って言われたからな。タバコをやめたんだよ。おかげ様で、金も貯まるようになった」
冗談っぽく言って、ハカセは笑った。
自分だけ泣いているのが悔しくて恥ずかしくて、顔を見られないように、僕は星空に視線を戻した。
しばらく、目をこすったり、鼻をぐすぐす啜ったりしていたから、どうせ泣いているのはバレていると思ったのに──ハカセはやっぱり、何も言わなかった。
「……僕は、ここに来れただけで……人生を後悔することはないだろうと、確信しています」
「……そうか」
「あの頃の僕は……こんな場所にたどりつく未来があるなんて、想像もしていませんでしたから」
こんなに、宇宙に近づける。
十歳だった『ぼく』が知ったら、きっと驚く。
冷たい空気に白い息を吐き出すと、きらりと星が流れていった。
【了】
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