万引き

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 「こんな屈辱初めてよ…!」 小刻みに肩を震わせた女は、伏せていた顔を勢いよく上げた。 「絶対に許さない!」  綺麗に化粧の施された顔がクシャリと歪み、点滅を繰り返す電灯がその顔に影を落とした。 『万引き』  その日、青田優子は久しぶりの休日を謳歌していた。 「今日は~、なんの日か~な~ふふんふ~ん」  微妙に調子の外れた歌を口ずさみ、二軍落ちのTシャツに幅広パンツというラフな格好。普段の彼女からは想像も出来ないほど抜けきったスタイルである。 「今日はー、火曜日!火曜日と言えば魚!魚と言えば…ドゥルルルルドン!すき焼き☆」  1人きりなのをいい事に、好き勝手呟きながらスーパーへと向かう。  今日は、本当に久しぶりの休日なのだ―。    青田が勤務する株式会社孫の手。ここは、家事代行業を営むまだまだ駆け出しの会社である。しかし、有難いことに口コミによる顧客数の増加、伸び悩みが懸念されていた一般家庭からの依頼も徐々にではあるが増え始め、社員一同諸手を挙げて喜んだのはつい先日のこと。  そんな喜ばしい状況の反面、事態は刻一刻と厳しさを増していく。 「社長、もはや限界です。…ご決断を。」  神妙な面持ちで詰めかける社員を見まわし、同じく疲労を色濃く滲ませた長谷川は深いため息を吐いた。 「…ああ。」  家事代行業とは、その名の通り家事の代行。凡そ、家の中もしくは近辺で完結する仕事という認識が一般的だろう。しかし、ここ株式会社孫の手は一味違った。  “顧客が求める範囲すなわち仕事の範疇”と言う、なんとも攻めた姿勢を貫いた結果、創業わずか3年足らずで業績はうなぎ登り。もはや熟練の戦士と化した社員たちの眼差しは、一般人のそれではない。とは言え、マンパワーにも限界はある。 「社長!」  薄ら涙の滲む声に視線を上げると、真剣な眼差しが突き刺さった。ここらが潮時か―。 「分かった。早急に社員を拡充しよう。」  こうして、株式会社孫の手は新たなステージへと駒を進めることとなったのだが、もちろん誰でもいいと言う訳ではない。  対峙する相手は、熟練の戦士たちをも唸らせる強者ばかり。青田とて、何度「お前、夜道には気を付けろよゴラァ」と喉元まで出かけたことか。  歴戦の戦士青田ですらそうなのだ。生半可な気持ちで当たろうものなら、瞬殺は免れないだろう。  とは言え、選り好みしていられる時間も正直言ってないのが現状。もはや、業務に支障をきたすのも時間の問題と言える所まで来てしまっているのだ。  ああ、どうしたら―。久しぶりの休日にも関わらず、青田の頭を占めるのは終始この事ばかり。折角ここまで頑張ってきたのに、こんな事で会社が立ち行かなくなるなんて考えたくもない。  はぁー…、本日何度目かのため息が口をつき、青田はスーパーへと足を踏み入れた。  自動ドアを潜れば、途端に強風が吹き荒れる。青田はサッとカゴを手に掛けると、まずは野菜コーナーへと足を向けた。 「お、トマト!お安いじゃない~。」  ブツブツ独り言を呟いてはあれこれ手に取って吟味する。今日はすき焼きにしようと思っていたけど、野菜炒めもいいかな。なんて、思った瞬間。突如、怒声が響き渡った。 「離しなさい!私を誰だと思っているのっ!」  見ると、若い女性が中年女性に腕を掴まれているところだった。近くには、エコバックから飛び出した果物が転がっている。 「知らないねぇ。そう言った話もまとめて聞かせてもらおうか?」  中年女性は、金切り声を上げる女性に怯むことなく言ってのけると、駆けつけた警備員に何事か告げた。  警備員は一瞬ギョッとした顔で2人を見たが、それも束の間、若い女性を何処かへと連れていった。  しんと静まり返った店内。しかし、1人残された中年女性は、まるで何事も無かったかのようにカゴを持ち直すと、スーッと気配を消した。  …プロだ。青田は、流れるような一連の動きに驚いたのと同時に感動を覚えた。あれが万引きGメンと言う人なのか!  と、その時。不意に、忘れかけていた記憶が呼び起こされた。 「もしかして…岡本さん?」  気が付くと、万引きGメン改め岡本弥生に声を掛けていた。  岡本弥生、彼女との出会いは確か大学でのことだ。同じゼミを選択していた関係で、一時の間よく顔を合わせていた。 「びっくり…した。やだ、青田さん?」  思わず声を掛けてしまった手前、人違いだったらどうしようという不安は杞憂に終わった。 「そうそう、青田優子!覚えていてくれたのね!」  途端、2人の世界は20年以上もの歳月を巻き戻ったかのようだった。 「そうだ、さっきの!すごいのね…、万引きGメンってやつでしょ?」  懐かしさもさることながら、青田は先程の感動を伝えたく早口で捲し立てた。一瞬の事とは言え、まさにプロの技と言うものを間近で見せてもらったようなものだ。  すると、岡本は複雑そうに微笑んだ。 「ありがとう。だけど、こんな仕事無くなればいいのにって、いつも思ってるの。…だってそうでしょ?万引きする人間がいなくなれば不要な仕事よ。」  確かに、万引き犯がいるから成り立つ仕事ではある。仕事柄、他人には伺い知れぬ悩みも多いのだろうか。 「…良かったら、今度お茶しない?」  青田はスッとスマホをかざすと、笑ってみせた。いくら話を聞いたところで、彼女の悩みが解決できるのかは分からない。しかし、吐き出し口は何個あっても困らないだろう―。  そんな思いからスマホを差し出すと、岡本は泣き笑いのような顔でスマホを取り出した。そしてポツリと、ありがとうと呟いた。  その後―、フッと何かを追うように目を細めた岡本は、また連絡すると言い置き足早で去って行った。  あれから数日が経ち、また日々の業務に忙殺される青田の元に一本の連絡が入った。 「もしもし、岡本です。」  早速連絡をくれたらしい彼女の笑みを思い浮かべお礼を告げると、妙に明るい調子で“今日、会えない?”と言われた。  途端、青田は返答に窮した。正直、今は目の回る忙しさだ。今日ですら、一体何時にあがれるのか見通しが立っていない状況なのだ。下手に約束したところで、それを守れるだろうか―。  その一瞬の躊躇いが彼女に誤解を与えたのか、申し訳なさそうな謝罪が聞こえた。 「ごめんなさい。実は、今日でこの仕事から離れることになったから、その報告をと思っただけなの。また…都合のいい時にお茶しましょう?」  それじゃあ、とまるで逃げるように電話を切ろうとする岡本を慌てて押しとどめ、青田は手短に事情を説明すると、20時に約束を取り付けた。    「ああ、ごめん!待ったよね?」 時刻は19時59分。我ながら情けないほど息せき切って駆け寄ると、岡本はゆるく首を振って笑った。 「大丈夫よ、なんかごめんね。相当走らせちゃったみたいで。」  申し訳なさそうに微笑む岡本からは、特段の悲壮感は感じられなかった。むしろ、晴れ晴れとした解放感にも似た感情すら伺える。  青田は何度か深呼吸を繰り返し、段々と呼吸が落ち着いていくのを感じた。”孫の手”に勤め始めてからと言うもの、だいぶ体力が付いたものだ。  それから2人は連れ立って近場のファミレスに入った。時間帯も時間帯なので、静かなものだろうと高を括っていたが、それなりに混んでいるのには驚かされた。 「意外と混んでるのね…。みんな、食べる時間遅くなってるのかしら?」  不思議そうに見まわす青田の前で、岡本は慣れた様子で卓上のタブレットを操作していく。 「現代人は忙しいからねぇ。それに合わせて、こういったサービスも長く営業するから、更に忙しい人が生まれる。まったく悪循環ね。…はい、お待たせ。」  岡本からタブレットを手渡され、青田も注文を終えると、2人の間に一瞬の間が生まれた。 「あの…、聞いてもいいかな?」  恐る恐る青田が切り出すと、岡本はふふふと笑った。 「別に大した話じゃないから、そんな顔しないで。…そうねぇ早い話、クビよ。」  あっけらかんと言う岡本とは対照的に、驚愕の表情で固まった青田の顔が面白かったのか、岡本は更にふふふと笑った。 「覚えてるかしら?貴方と再会したスーパーで捕まえた若い女性のこと。彼女、どうもとある社長のお嬢様だったらしいのね。それなのに、私が万引き犯で捕まえちゃったものだから、それはもう大層なお怒り状態で。困ったスーパー側は、私の勘違いだったって言わせたかったらしいのだけど、頑として受け付けなかったものだからクビですって。」  困ったものよね~と、まるで他人事のように苦笑する岡本に、青田はなんと言ったらいいのか分からず、口を開けては閉じを繰り返した。 「え、でも、そんな…。」  たったそれだけの事で、1人の人間をクビに出来るものなのだろうか。それに岡本の口ぶりから察するに、その女性が万引きに手を染めていたのは事実だろうに。 「あの子ねぇ、実は初犯じゃないのよ。」  青田の言わんとしてる事に察しがついたのか、岡本は初めて悲しそうな表情を見せた。 「何度も何度も…あれは一種の病気なのかな。その度に、後日お母さんが代金を支払いに来る、その繰り返しだった。だから今回、わざと人目につくようにしたの。自分は悪い事をしているんだって、ちゃんと認識してほしかったから。」  そしたらこのザマよ、なんて苦笑しつつも岡本の顔は晴れなかった。 「これからどうするつもりなの?」 「そうだなー…少なくとも、スーパー関係には就きたくないかな。」  そう小さく笑った岡本は、すっかり冷めきった料理にやっと箸を伸ばした。  「社長、少しお時間よろしいでしょうか?」 ある日の昼下がり。事務所内には、たまたま青田と長谷川の2人が待機していた。  青田の問いかけに、うん?と微笑みを浮かべた長谷川は、続く言葉に目を大きく見開いた。 「ほ、本当なのかい?…いやしかし…。」  長谷川が飲み込んだ言葉を酌むように、青田はしっかりと頷いてみせた。 「私にお任せください。」  長谷川は尚も逡巡している様子だったが、一度しっかりと青田の瞳を見つめると、大きく頷いた。 「分かった、君に任せる。責任は私が持とう。」    それから数週間後―、1人の女性が顧客の玄関先でチャイムを鳴らしていた。 「お世話になっております。株式会社孫の手、岡本弥生でございます。本日はどうぞよろしくお願い致します。」
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