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透君は残業や出張ばかりで、会う頻度も落ちて、そろそろ別れを切り出されてしまうのかな……と不安だった矢先のプロポーズ。
何の前触れもなかったものだから、私はすっかり有頂天になった。
だからその夜、暫く泊まっていなかったのに私のパジャマがベランダに干してあったのも追及しないと決める。
なんて身に余る幸せ。
悲しいことなどひとつもない。
私は世界一、幸福なお姫様。
「新郎、透。貴方は紗和を妻とし――健やかなると時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も――」
でも透君にはいつだって私以外のお姫様達がいて。
「はい、誓います」
――本当に?
彼の声が、遠く、何枚もの塀を隔てた向こうから聞こえるように響く。誰かのさめざめとした泣き声が五月蝿い。
式場のスタッフが「大丈夫でしょうか」と尋ね、私は「大丈夫です」の意味で頷き返した。
神父が再度、誓いを促す。
あの子の苛立った溜息が聞こえる。そりゃあ好きな相手が他の誰かに愛を誓う言葉なんて、何度も聞きたくないよね。
透君が私と付き合う前からしぃちゃんと親しかったのは知っているし、他大の女の子や、バイト先の後輩、地元の同級生、ライブハウスでナンパした子等々、お姫様達を挙げればきりがなく、でも平日残業の日は決まって職場の美人な先輩と一緒で、出張もその人と旅行していて、私とのデート中にも何度も着信があったね。
それに一番の仲良しはしぃちゃん。あの子はSNSにリアルタイムで写真を投稿するから居場所を特定しやすくて、全部、全部、わかった上で沈黙を守るのは、だって沈黙は金、沈黙は金、沈黙は金沈黙は金沈黙は金沈黙は金沈黙は金だから。
――そろそろ言わなくちゃ。
僅かに唇を開いた瞬間、神父もスタッフも、皆が透君の行動に目を奪われ、誓うタイミングを逃した。
透君、どうしたの。せっかくのタキシードが汚れちゃうよ。
「紗和、許してくれ」
何がなんだかわからないまま、透君を見下ろす。
「御新郎様?」
「ちょっと透、何をやってるの」
「やだ。貴方達、結婚式なのに喧嘩でもしたの?」
「……君、うちの娘に何をやったんだ!」
「紗和さんのお父さん、落ち着いて。紗和さんもだんまりしていないで何とか言ってください」
「……えっ、何事?」
「新郎どうしたんだろ……」
「……知らない? ほら、あいつ散々浮気してたから」
「何股だっけ?」
「おい親族に聞こえるって」
「今の話、どういうこと。うちの兄貴が何したって?」
「志織もよく来れたよねぇ……」
「何よ。あたし悪くない。透が悪いんじゃん!」
「……なんだ、私以外にも女がいたんだ……私、元カノどころか、最初から本命じゃなかったんだ……」
「先輩、落ち着いて」
「おい撮影止めろ」
「紗和、貴方知ってたの? お母さんには言えるでしょ?」
「透、何とか言わないか!」
「ぼ、僕は」
「ずっと黙認してたくせに、こんな手に出るなんて異常じゃん。浮気くらいで。紗和、異常だよ!」
「志織やめなって」
「自業自得だよな~」
「御祝儀って返金ある?」
「いい加減別れれば良かったんだよ、透!」
「嘘つき……」
「透!」
「透」
「僕、僕は……僕は……」
床に額を擦り付け、自ら罪を暴露する透君。私の父は彼を怒鳴って、母は泣いて、向こうの両親が謝罪する。
私は何も言わないのに、皆が勝手に盛り上がって、透君を責め立てる。
しぃちゃんが絶叫してバージンロードを走って来るのを他の友達が羽交い締めにし、その隙間から一人の招待客がしぃちゃんを追い越した。透君が入社して少しの期間、遊んでいた美人の先輩だ。ずっと啜り泣いていた彼女は、兎のように真っ赤な瞳を私に向け、それから土下座する透君に覆い被さった。
透君が叫び、男性のスタッフが彼女を引き離し、血溜まりが木目の溝を流れ、先輩のドレスが赤く染まり、しぃちゃんまで悲鳴をあげて、あの子も、あの子も、あの子も。
なあんだ。本当は皆、透君に言いたいことがあって、裁きが下って欲しかったのね。その切っ掛けを待っていたのね。
「紗、和……許、し……て…………」
私は一人黙ったまま、事切れた透君から目を逸らし、綺麗に磨かれた窓を見た。
彼が欲しかった答えを私は持たない。彼の中だけにあった。そしてもうどこにも無い。
沈黙は金、雄弁は銀。
頬に温い涙が伝う。
白いヴェールに覆われた私の顔がガラスに反射し、それはまるで笑う骸骨のようだった。
了
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