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【 透 】
沈黙は金、雄弁は銀。
――十九世紀のイギリス人評論家、トーマス・カーライルが著書に記した言葉で、それは僕の彼女……いや、これから妻になる女性が常々口にする座右の銘でもあり、僕は、そんな彼女の奥ゆかしい堅実な一面に惚れてプロポーズをしたのだったが、何もこんな状況で沈黙を守らなくても……。
困り果てて隣を見るが、正面を見据える彼女の顔はまったくわからない。白いヴェールの向こうで一体どんな表情を浮かべているのか。
気まずい静寂の数秒間の後、神父は優しい声色でもう一度繰り返した。
「新婦、紗和。貴方は透を夫とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、夫を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
「…………」
早く答えて欲しい一心で、僕は時が流れるのを待った。
はい、誓います。
たったこれだけの短い言葉をどうして言わないのだろう。どこか具合でも悪いのか。いや、意気揚々とバージンロードを闊歩した後でそれはあるまい。
段取りを忘れたのか、或いは、この期に及んで結婚に不満があるのか。それなら直前までドレスを決めかねて打ち合わせていたのは何だったのか。
紗和の感情が読みづらいのは今に始まったことではないし、変わり者なのも承知している。しかし。
隅に控える式場スタッフが音もなく駆け寄って、彼女に囁きかけた。内容は僕の耳には届かなかったが、恐らく「大丈夫ですか」とか「体調が優れないのですか」とかそういった確認だったろうと思う。
彼女は短く頷きを返した。はい、なのか、いいえ、なのかは釈然としないが、その仕草は見慣れたいつもの紗和だったので、荒立ちかけた僕の心はたちまち凪いだ。今朝方、「少し緊張する」と頬を紅潮させていた彼女を思い出す。そうか、これは緊張のせいか。彼女は人前が苦手だから。
スタッフは次に神父に何かを耳打ちし、そそくさと所定の立ち位置に戻ってゆく。自分だけ蚊帳の外のようで気分を害したが、招待客の目がある手前、スタッフが出しゃばる時間の短縮を優先したのだろうと思い直した。
さあ、もう一度。
「新郎、透。貴方は紗和を妻とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい、誓います」
答える言葉につい熱が籠る。
参列席から溜息が聞こえ、こっちだってやりたくて長々やってるんじゃねえんだよと怒りを覚えた。
「新婦、紗和。貴方は透を夫とし、健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、夫を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
「…………」
糞。何だって言うんだ!
ここに親族、友人、上司、同僚が居なければ腹から怒鳴っていたに違いない。
もう駄目だ。一回や二回なら、新婦の緊張や体調不良で通ったかもしれないが、三回目――これは誰の目にも明らかな拒絶である。
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