潰れたスイカの果肉は赤い

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 スイカ割りをしましょう、と母が言った。  真夏の昼下がり、僕は机の上に広げていた小学校の夏休みの宿題から顔を上げ、母を見た。  白い光の差し込む部屋でワンピースの裾を翻す母は、その腕に大きなスイカを抱えていた。 「……スイカ割りって、どこで?」  白く広いこの部屋は、マンションの高層階にある。壁も天井も白くて、床も色身を揃えてある。掃除を欠かさない母の手により、いつもすみずみまで輝くほどに磨かれていた。 「この家でやるのよ」  立ち居振る舞いだけでなく笑顔も上品な母は、耳に心地よいなめらかな声で答えた。腕に抱えられたスイカだけが、この静かな家に不似合いなきつい原色をもたらしていて、いかにも異質な存在感を示していた。 「部屋、汚れちゃうんじゃないかな。……わからないけど」  僕は小学五年生となるけれど、勉強に力を入れる私立に通っているせいもあって友達はみんな習いごとや塾ばかりで休日に一緒に遊ぶことはほとんどない。  たまに遊ぶことはあっても、スイカ割りをしたり川遊びをしたりなど、外でアクティブに動き回るようなことはなかった。  母は母で「ママ友」という存在もいないようで、交友関係は父の会社の繋がりばかりのようだった。食事会やお茶会に行くことはあっても、スイカを囲んで盛り上がるような仲では決してないだろう。  昔からずっと「お嬢さん」で、結婚して僕という子どもが生まれて育っても「お嬢さん」のままの人。  とどのつまりは、僕にはスイカ割りの経験はなく、母もきっと同じだろうということ。  スイカを叩いて割るとどのくらい果汁が飛ぶものなのか、どのくらい部屋が汚れてしまうものなのか、まったく見当がつかない。そもそも、室内でやるようなことではないのではないだろうか。 「気にしなくてだいじょうぶよ。ほら、ビニールも用意してあるから」  母は僕の手を引き、リビングへと移動した。リビングにあったソファなどは端に寄せられていて、そこに空いたスペースに青いビニールシートが敷かれていた。 「下で買い物をしていた時にね、スイカ割りをしている人たちを見かけたの。地面にビニールを敷いていたから真似してみたのよ」  母はこの家の外を「下」と呼ぶ。マンションの高層階の僕たちの家、その遥か下の街。人々の温かみのある商店街も、地域に愛されている神社やそこで行われるお祭りも、母にとっては「下」のできごと。 「下はとっても暑かったわ」  汗をかいてみんなでわいわい囲んでやるからスイカ割りは楽しいんじゃないかなと僕は思う。声を掛け合ってみんなで割って、食べる頃にはぬるくなっているスイカにかぶりつくという眩しさがそこにはあるはずだ。  たぶん、こんなエアコンの効いた涼しい部屋で母子二人でやるものではないという気がする。  もしここに父が混ざったところで三人になるだけだけど、その父もきっとスイカ割りには参加しないだろう。  父はすらりとしていて高いスーツも腕時計も、何でも見事に着こなせるほどにスタイルが良いけれど、体が重くて億劫で、この家に帰ってくるのがだいぶしんどいようだから。  エレベーターがあっても関係ない。重いのは体ではなく心のほうだと言うことも知っている。父にとっては「下」の方がきっと居心地が良いのだ。  ぽん、と母がスイカを叩いた。初めて見るその動作は母の姿に似合わない。大きなスイカは重たそうで、母の腕から落ちてしまうのではないかと不安になった。
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