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「さぁ、スイカ割りをはじめましょう!」
僕の返答を待たず、母は僕に目隠し用のハチマキを巻いた。途端に視界が真っ暗になり、「用意するから少し待ってね」と言われた。スイカを置く以外に何の準備が必要だというのだろう。暗闇にひとり放り出されるのは心もとない。
「えっと……その場で回るんだったかしら? ぐるぐるって回れる?」
背後から肩に手を乗せられ、右耳にそう話しかけられた。ルールなんて僕は知らない。
母が僕の体を回転させ始めた。「何回回ればいいのかしらね?」と楽しそうな声が右から左に流れていく。
「下」でスイカ割りをする人たちを眺めていた母を思う。家族やその友達や、近所の人たちと大声ではしゃぐ人たちの姿を、母はきっと奇妙な気持ちで眺めていたことだろう。ビニールを敷いてバットを軸にくるくる回って、とやり方だけ一生懸命学んでここへ帰って来たのだ。
やがて何回回ったかもわからなくなった頃にようやく母の僕を回す手が止まった。すでに僕は酔ってしまって若干気持ちが悪い。それでも「はい、この棒で」と渡されたバットを握りしめ、僕はふらふらしながらも歩を進めた。
「ちょっとずれてるわ。右に向かって」
母の声に従って右に行こうとしたけれど、目が回って足が思うように動かない。
「曲がりすぎよ。少し戻って」とまたアドバイス。
僕はここかな、と思った場所にバットを振るった。
ぼすん、と間の抜けた音。ビニールシートが重なりあったところにぶつかったようだ。
「うふふ、下手ねぇ。……下にいた人たちはもっと上手だったのにな」
今日はずいぶんはしゃいでいるな——と思ったすぐ後、「下」の様子を思い出して語る声がひどく平淡になった。
「次はお母さんのアドバイスをちゃんと聞いてね」
また、不可思議なほどの明るい声。僕は声のする方に頷いてバットを構えた。
母の助言に従って右へ左へよたよたと進む。スイカとの距離がどれくらいあるのかまるでわからない。
「そこ!」
と、鋭い声が飛んだ。
「振り下ろして!」
ふだん聞かない大きな声に動揺して、バットを振り下ろす腕が狙いから逸れた。
がすん、と音が響く。
「……惜しいわ。もう少し力を込めないと」
心底悔しい、とでも言うように母が呟いた。そんな感情を見せる母を知らない。心に不安が滲み出してくる。
(今の、スイカ……?)
バットがかすったものの感触を、僕は脳内で確かめる。
……もちろん、スイカだ。それ以外にない。
スイカをバットなんかで殴った経験がないからよくわからないだけで、僕が殴ったのはちゃんとそれのはず。
視界を奪われると人は途端に不安になる。ここがほんとうにいつもの場所なのか、そばにいる人がいつもと同じ表情をしているのかわからなくなる。
「近づきすぎたから、少し、後ろに戻りましょうか」
いつもにこやかなはずの母の声が冷たく感じられるのも、そのせいだ。
母に体を支えられ、数歩、戻る。
「その角度のまま進んで」
一歩、二歩。この辺りだろうか。
「今!」
厳しく飛んだ声に反応して、バットを力いっぱい振り下ろした。ごすっという鈍い衝撃があって、頬に汁が飛んだ。
「——上手!」
ぱちぱちと手を叩いてはしゃぐ母に、狂気のようなものを感じはじめていた。バットから手のひらに伝わった感触をもう一度、一生懸命確かめる。
(スイカを——)
母は、スイカを丸ごと買うなんてしない人だった。
高級スーパーでカットされているものを買ってきて、スプーンで口に運んで食べる。小さな口で上品に、口紅を少しも落とさずに食べてみせるのだ。
熟れすぎて大きなスイカは母の腕には似合わない。
どこで手に入れた? ——それとも、「どうして」?
(手がじんじんする)
母以外に様子を伝える人がいないから、ほんとうにスイカを上手く殴れたのかどうかもわからない。
「上手く当たったけど、もっと思い切りよく振り下ろさないと割れないわ」
やり直しを求める声に、僕は唾を飲み込んでバットを持つ手に力を込めた。
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