鳥海 青

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 夜の8時頃、青はようやく自宅のマンションに着いた。あの後、頭と顔を洗うのはもちろん、制服をコインランドリーで洗ったり乾くのを待ったり忙しくしていたため、帰宅が遅くなってしまった。  青はこういうときのために着替えと染み抜き用の洗剤を小分け用のボトルに入れ持ち歩いている。本来ならば大事故なのだが、青にとってはそうではない。長く付き合ってきた体質にはもう小慣れている。  青は今までも、不幸体質により招かれる不幸な最期を不死身で阻止する代わりに、この面倒な後始末を一人で行ってきた。  そもそも、青が自身の不死身をはっきりと自覚したのは中学二年生の頃だった。  それまでも怪我やトラブルの絶えない少女だったが、周りからは傷が治るのが早く回復も早い体質としか認識されていなかった。  それでも、誤ってカッターで作った指の切り傷や、階段で転んでできた膝の擦り傷、人とぶつかってできた青痣が、目を離した隙に跡形もなく消え、痛みも無くなっている事実に青は幼いながらに疑問を抱いていた。  そして中学二年生の夏休み、友人たちに連れられ川に遊びに行った。少し塗装の錆びた、幅が狭く柵も腰あたりまでの高さしかない橋を五人で渡っていた際、青の後ろにいた友人が青の背中をふざけて思いっきり押したのだ。  青はバランスを崩して頭から橋の下に落下した。目が覚めた時には岸にあげられ、皆が真っ青な顔で自分を取り囲んでいたが、青自身は一眠りした後かのように身体の調子は良好だった。  その時、青を突き落とした張本人が口にしたのだ。  「ここ浅瀬だから、岩にぶつかったみたいで、血が流れてたんだよ。みんなであげたときには体の向きもおかしかった気がする。息もしてなかった。でも、青ちゃんっていつも体丈夫だもんね。本当によかった……」  青はその言葉で鮮明に思い出した。水面に、そして岩に全身を打ちつけられ骨が潰れていく感覚を。自分の体が自分の意志とどんどん引き離され、やがて冷水が胸を満たし、視界が霞んでいくあの瞬間を。  あまりにも恐ろしい記憶だった。震えが止まらなくなり、息を荒げ、立ち上がることができなくなった青は、友人に担がれ帰宅した。  その日の深夜。恐怖で寝つけない青の頭の中に一つの説が浮かんでいた。それは思い付きではない。ずっと抱いていた疑問がついに線で繋がった瞬間だった。  青は物置部屋から小学生の頃使用していた縄跳びをそっと持ち出す。身震いする身体に鞭を打ち、覚悟を決めた。  そして、青は自身の不死身を確信したのだ。実際、その後も常人ならば死んでも同然の状況で生きて帰ってきた。確信せざるを得なかった。  そこに喜びはない。あるのはこれから襲いかかってくるであろう痛みや苦しみへの恐怖と、その“事後”の対処への不安のみ。この事実を誰にも知られてはならないと青は直感していた。  何故なのかはわからない。青は元より自分の意志を他人に伝えることを億劫だと思う性格ではあった。しかし、このときばかりはそのような理由ではなかった。  不幸体質は自身の不死身を認識してからより顕著となり、耐え難い痛みと苦しみを伴いながら、怪我を、そして死を重ねていく。  恐怖の記憶は青の中に蓄積され、徐々に少女から希望を吸い上げていった。  あの痛みとあの苦しみに慣れることはない。それでも、諦めるしかない。  今回の事故も大したことではない、大したことではないと青は自分に言い聞かせた。そうしないと、鉄塊が自身を潰すあの瞬間が何度も頭を過るのだ。  降ってきたのが鉄線や鉄パイプじゃなくてよかった。制服が破れずに汚れただけで済んだ。しきりに降り続ける雨が血を流してくれたから後始末が楽に済んだ。そんな言葉を頭の中で反芻しながら青は自宅までの夜道を辿る。  それに、本当に良かったこともあった。それはスマートフォンが無事だったことだ。青はそれはもう何度もスマートフォンを壊しているので、父から次はないと脅されている。  そのスマートフォンで事前に母には遅くなると伝えておいたのだが、青が玄関の扉を開けるとすぐに両親が駆けつけてきた。  「ただいま。何、どうしたの」  「何って、あんたニュース見てないの?」  両親のただならぬ様子に動揺を込めて問う青に対し、母は呆れとも怒りともとれる言い方で返した。  「また近くで見つかったのよ。遺体が」  「またって……」  そこまで言いかけて、青はすぐに理解した。  そう、“また”起きたのだ。ここ数ヶ月、巷を騒がせている連続殺人事件が。  事件は決まってこの市内で起きる。犯行方法は紐のようなものを使って窒息死。遺体の側に必ず白い花束が置かれていることから、ネットでは『フラワーキラー』などという安直な名前で呼ばれている。犯人に繋がる手がかりは一切なし。そのため、この辺りでは夜出歩くことを躊躇する人が増えている。被害者にも共通点がないことから無差別殺人と言われているが、一部では“正義の執行”を目的としているのではないか、などという噂もたっていた。  だが、青にとって殺人鬼などどうでもよいものだ。何故なら、どうせ死なないからである。微塵の恐怖も無いため、全く興味を持てていない。それでもこの両親はそんな事情を知らない。純粋な気持ちで心配しこうして出てきてくれたのだろうが、自立心が芽生え始めた十六歳の高校二年生の青には、それが少し重たく感じられた。  「私なら大丈夫だよ。人通りの多い道しか通らないし、メッセージでも伝えたけど友達といたから」  「だとしても、明日からは寄り道せずに真っ直ぐ帰りなさい。その友達も危ないんだから。その子はどこに住んでいる子なんだ?」  靴を脱ぎ、両親の横を通り過ぎようとする青の背中に父の問いが投げかけ、られたが、青は自室の扉を開けるだけ、何も言わずに中に入り、それを閉めた。  扉越しから母の「まったくあの子は……」という声が聞こえてくる。それすらも青にとっては不快で仕方ないものだった。  スクールバッグから洗ったシャツを取り出しハンガーにかけると、イヤホンをスマートフォンに挿して耳に付け、そのまま着替えもせずにベッドの布団に潜った。  結局キーホルダーを探す余裕は無かった。例え不死身でも体力は消耗する。明日の朝にでも謝罪しようと考えながら、青は深い眠りについた。
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